何が慎慮であり何が中心であるかを理解せよ

箴言は、どの言葉もじっくり味わうと、実に味わい深く、考えさせる内容の格言ばかりだが、以下の言葉も実に深い。
訳によって、若干ニュアンスや伝わり方が異なるが、本当はかなりインパクトのある言葉だと思う。


You who are simple, gain prudence;
you who are foolish, set your hearts on it.
(Proverbs 8.5)


思慮のない者よ、悟りを得よ、
愚かな者よ、知恵を得よ。
箴言 第八章 第五節 口語訳)


浅はかな者は熟慮することを覚え
愚か者は反省することを覚えよ。
箴言 第八章 第五節 新共同訳)


未熟な者たちよ、聡明さを悟れ。
愚者たちよ、心を悟れ。
箴言 第八章 第五節 旧約聖書翻訳委員会訳)


未熟者よ、何が慎慮であるのかを理解しなさい。
愚か者よ、何が中心であるのかを理解しなさい。
箴言 第八章 第五節 自分訳)


ハヴィーヌ・フェタイーム・オルマー・ウヘスィリーム・ハヴィーヌ・レヴ


「レヴ」という言葉は、心臓や心という意味で、heartと通常は訳される。
中心と意訳してみたけれど、心を理解せよ、中心を理解せよ、心臓を理解せよ、といろんな意味に受けとめることができる。


愚か者というのは、要するに、何が中心であるのかを理解せず、何が本当に大切な心であるのかを忘れている人のことなのだろう。


人生において何が中心であるのか。
箴言は、「主を畏れること」(イルアット・アドナイ)だと言い、それが知恵の始まりだと明確に述べている。
つまり、この世を貫く法則に畏敬の念を持ち、まっとうに生きて、道を踏み外さないように注意し、慎みをもって生きるということだろう。


言い換えれば、いのちの正しい活動を行い、間違ったいのちのありかたを避けるということである。
さらに言い換えるならば、どのいのちも慈しみ尊び、支え合っているいのちの中のひとつに過ぎない自分に気づき、自分もまた他に良い影響を及ぼし、他のいのちを支えていくように生きていくことだろう。


この中心の要を、自分の欲望を中心として生きて見失うことが、愚か者ということなのだと思う。


また、このように人生の中心の要を理解した上であっても、この人生を生きていくのは、時には至難のものであり、一手先、二手先、場合によっては十手も先を読んで、よく計画や準備をしていく必要がある。
そのような知恵が慎慮(prudence)というものであろう。
この慎慮を持たず、浅はかにろくに準備や計画を持たず、困難や苦しみに自ら突っ込んでいくことが、慎慮や思慮を欠いた存在、つまり未熟者なのだと思う。


人間というのは、よく学び、よく知恵の言葉に耳を傾けない限り、最初は誰でも、未熟者や愚か者なのだと思う。
誰でもそこから出発し、そのような自分に気づけばこそ、知恵の言葉に耳を傾け、慎慮をめぐらせ、努力や準備をし、何が中心なのかを繰り返し心に刻み直して、やっと少しずつ知恵のある人生を生きていくことができるのだと思う。


この言葉は、自分の座右の銘にしたいと、しみじみ思う。
箴言の中の言葉は、どれも本当は座右の銘にしたいし、座右の銘にすべき言葉なのだけれど、特にあげるとすれば、イルアット・アドナイと、希望が絶たれることはないという言葉とともに、この言葉を、自分にとって苦い言葉だけに、謙虚に常に思い起こしたいと思う。