唇と心

箴言は、一見さらっと述べられていることが、よく読むと、実はとても考えさせられる表現であることにしばしば気づかされる。
以下の一節も、その一つと思う。


The lips of the wise spread knowledge,
but the hearts of fools are not upright.
(Proverbs 15.7)


知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、
愚かな者の心はそうでない。
箴言 第十五章 第七節 口語訳)


知恵ある人の唇は知識をふりまく。
愚か者の心は定まらない。
箴言 第十五章 第七節 新共同訳)


賢者たちの唇は知識を広めるが、
愚か者たちの心はそうではない。
箴言 第十五章 第七節 自分訳)


スィフテー・ハハミーム・イェザールー・ダアット・ヴェレヴ・ケスィリーム・ロー・ヘン


ここでは、賢者の「唇」が知識を広めるのに対し、愚者の「心」はそうではない、と述べられている。
これは、非常に考えさせられることである。


というのは、賢者の「唇」がなぜ知恵や知識を広めることができるのかといえば、「心」が知恵や知識に満ちているからだろう。


一方、愚者はどうして知恵や知識を広めることができないかというと、単に「唇」が拙いからではなく「心」が拙いからである。


この箴言の一節は、「心」と「唇」(言葉)は切っても切り離せない、両輪のようなものであることが明らかに説かれている。


私たちは日ごろ、立派な言葉を述べている人がいても、きちんと耳を傾けず、心はそうではないなどと安易な批判をする。
たとえば、野田さんが首相だった時は、しばしば非常に立派な演説をしたものだが、しらじらしいだの言ってることは立派だが、など文句ばかり言ってこき下ろす人が非常に多かった。


一方、たいしたことは言っておらず、またその言葉はよく読むと論理的に筋が通らないものだったりしても、何かもっと奥深いことを考えているのではないか、実はそれなりにしっかりしているのではないか、と思う場合もある。
今の首相などはそうで、随分と世論もマスコミもあたたかく、大したことを言っていなくてもなんでも誉めて支持するようである。


しかし、立派な唇や立派な言葉というのは、その背景に立派な精神がなければ決して発揮されないのだと思う。
また、大した言葉がないということは、要はその人の精神が貧弱なのだと思う。


もちろん、場合によっては、世を忍ぶ仮の姿ということもありえるだろう。
また、一時的には、人の言葉を借りてきて、だますこともできるだろう。
しかし、それはどちらもあくまでほんの一時的なものでしかありえず、継続的・恒常的な様子を見ていれば、だいたいその人の唇によって心も知られるのだと思う。


そうであれば、良い言葉や立派な言葉や奥深い言葉に、常に触れることによって、私たちの心も耕されるのだと思う。
また、自分自身も、なるべく良い言葉を使うように心がけるべきなのだろう。


唇と心は切っても切り離せないものであり、ほとんど等置できるということを、この箴言の一節は、さりげなく知らせてくれているのだと思う。