福沢諭吉が言った「脱亜入欧」とは、要するに、夜郎自大の排他性や半開レベルから抜け出て、普遍的な文明に入るという意味だった。
今の日本の一部のネトウヨのように、ろくな教養も道徳も持たず、偏狂な排他意識に落ち込むならば、実は「脱亜入欧」と真逆であり、文明から半開・野蛮に入るものだろう。
大半のネトウヨは、西洋文明への教養があるどころか、万葉集や古今和歌集や新古今和歌集すらろくに読んだことがない人間ばかりのようである。
和歌の教養もなく、日本への愛を語る資格があるのか、甚だ疑問で仕方がない。
と言うと、今のネトウヨは、日々に「反日」と戦うために、悠長に和歌を読んでいるような贅沢な時間はないと言うようである。
幕末の志士たちは、あのように多忙な中でも、実に深い漢詩や和歌の教養を持っていたが、彼らは悠長で、贅沢に時間を使っていたというのだろうか。
また、明治の頃の歴史の本を読んでいると、自由民権の側も政府の側も、開国後そんなに時間が経っていないのに、実によくミルやルソーやトクヴィルの本などを活発に読んでいることに驚かされる。
かえって今の日本人の方が、ろくにそれらの古典を読まずに、政治を論じる場合が多いのかもしれない。
たぶん、高度経済成長で物質的に豊かになったこと自体は良いことも多かったのだろうけれど、スリランカやブータンを見ていると、幸福や気高さというのは、物質だけでは得られないし、精神的な要素も大きいと感じる。
日本も、もうちょっと精神文明を自覚的に築いた方がいいのかもしれない。
福沢諭吉は、再三再四、文明は単に物質的なものではなく、むしろ精神的要素こそが重要であることを力説していた。
紙幣を通じて日本国民は皆福沢諭吉の肖像は日々に見ているはずだが、高尚な精神や道徳をこそ文明に求めた福沢の願いや思いはいったいどれだけ受けとめてきたのだろう。
せっかく、多くの先人のおかげで、和漢の書籍にも、西洋の文物にも、両方とも気軽に接することができる環境に現代の日本人はいる。
ろくな教養もたしなみも持たず、自分のことは棚にあげて俗悪に生きる現代の野蛮人になるのではなく、真の文明の精神を担い、深め耕す人間であってこそ、先人に恥じず、後世の模範となる時代や社会をつくれるのではなかろうか。
福沢諭吉が願い、またのちに丸山真男や渡辺一夫らがそう願ったように、皮相な西洋文明の摂取ではなく、深く西洋文明の真髄を咀嚼するということを、今の日本はできているのだろうか。
さまざまな研究や知識や機会は増えたのだとは思うが、未だ真髄を咀嚼するということにはかなり程遠いのかもしれない。
明治以来の西洋文明の摂取の努力のおかげで、今は大抵の本は翻訳されているし、原文も気軽に手に入られられる。
音楽や絵画にも頻繁に触れることができる。
本当にありがたい。
江戸や明治以来の無数の翻訳者や紹介者の努力のおかげだろう。
杉田玄白や前野良沢や福沢諭吉らに感謝すべきだろう。
西洋文明の真髄を咀嚼し、和漢の雅な優しい心もたしなみ、野蛮や半開を去って文明により深く入り進むこと。
それこそが、福沢の言っていた「脱亜入欧」の真意であったとすれば、我々は未だに「脱亜入欧」が必要であり、そしてこの言葉の真意を全く理解せず、皮相な理解から逆に文明を去って野蛮に入るような人々こそ、「脱亜入欧」の敵であるということを、今の人はよく注意すべきなのかもしれない。