現代語私訳『福翁百余話』第二章 「風流なことも世俗のことも両方に博識であるべきです」

現代語私訳『福翁百余話』第二章 「風流なことも卑俗なことも両方に博識であるべきです」


博識であるということは、知識や見聞が広いということです。
必ずしも善いことだけを知っているわけではなく、悪いことも知り尽くしているのが、博識というものです。
そして、悪いことがどのように行われるかの方法を理解しながら、立派な人物はあえてそのような悪いことは行わないというわけです。
悪いことを知り、そして悪いことを行うのはつまらない人間です。
悪いことを行わない人が立派な人物です。


昔、花の都の京都に住んでいた伊藤東涯(江戸時代中期の儒学者伊藤仁斎の息子。福沢諭吉の父・百助は伊藤東涯の著作を愛読していた。)という先生が、携帯目的の分離式の接竿(つぎさお)三味線を入れるための三味線箱を買って、いつも傍らに置いて大切にしていながら、それが三味線箱だということを知らなかったそうです。
そのことは、伊藤東涯先生の品行方正さや徳の高さを現したエピソードとして、当時においてはおのずとその弟子達を感化した話だったことでしょう。
どういうことかと言うと、伊藤東涯先生は遊興の席の音楽などを一切耳にしなかったので、そもそも三味線に携帯用の接竿の三味線があるなどといいうことを知らなかったというわけで、清潔で無垢で徳が高い方だったというわけです。
私たちこそ、顔が赤くなることであろうと、東涯先生の評判はあちこちに伝わり、感化の範囲も広く、のちのちまでも大きな良い影響を与えたことでしょう。


私はもちろん、こうした種類の感化の力をないがしろにするわけではありません。
しかし、社会の文明はだんだんと進歩して、世の中は忙しく煩雑なものとなるようになってきて、そのため人の心の変化もめまぐるしい今の時代においては、若者を道徳に教育するための方法も、自然と様子が昔とは変わらざるを得ません。


道徳教育の方法には、若者を道徳に導くものと、不道徳の中から救い出すものと、二つの方法の区別があります。
つまり、道徳に導くための方法は、年長者がまず自ら自分の身を修養して、全身一切何の汚れも留まっていないようにし、口に道徳の議論をしゃべりまくるのではなく、実際の事実を自分の行動で示し、知らず知らずに道徳の決まりに若者が従うようにすることです。
家族が仲良く一家だんらんの中で、子どもが両親のしていることを見習うようになることは、最も有効な道徳的な教えであり、伊藤東涯先生の弟子に対するものも、こうした種類の感化の方法です。


ですが、若者がだんだんと成長して、だんだんと不道徳や不品行に傾いて、すでにそうしたことに深入りしてしまったとしたら、その人を救い出して正しくさせるためには、単に不言実行の感化という方法によるだけでは十分ではないことが多いものです。
そうした若者に対して向かい合うためには、あたかもの自分の側の身も不道徳や不品行の境遇に置いて、その楽しさの深さや浅さを探り、その楽しみに向かう熱心さや気持ちをよく測って、一切のあらゆることについて、その本人の隠れた事情を知り尽くして、本人の不道徳や不品行が本人とって、またその家族にとって、そして社会にとって、利益か不利益か、損か得かということを明らかにして、その利害がどこにあるのかを示すという方法があるだけです。


たとえば、女遊びに耽る者がいれば、風俗業界の事実を話してあげ、賭け事の勝負に凝っている者がいれば、その賭け事の種類に応じて、それぞれの手練手管やテクニックを語り、秘密にすべき事柄の中でも特に秘密となっている事柄や、場合によっては本人にっても意外なほどの大きな秘密を明らかにして、その度胆を奪って、そののちに徐々に本人のために賭け事の勝負が不利益であることを語ってあげるべきです。
ギャンブルにはまっている人に意見してもらうのにはギャンブラーの親分の人に限るし、道楽息子を強く諌めるには遊びごとに精通した苦労人に任せるべきだというのも、偶然のことではありません。
学校の生徒を取り締まるのには、かつて貧しくて元気な学生時代を送った人間でなければできません。
軍隊において一軍を率いる人物には、下士官や一兵卒から出世した人であってこそ大きなことができることでしょう。
こうした種類の辞令を数えるならば枚挙にいとまがありません。
要するに、事柄の良し悪しや美醜に関係なく、その事柄の内実を知っていなければ一緒に相談するには不十分だということで、そのことは経験上間違いないことです。


人は場合によってはこう言うかもしれません。
若者の不道徳や不品行を救うために、その悪いことの内実を詳しく把握しようとするならば、自分自身がまず同じような悪いことをしなければならないということになる、それではこの世の中に一つの悪を除こうとして逆に一つの悪を増やすのと同じことになると、と。
ですが、そのような説は、人間は智恵の働きを狭く推し量ったものです。
仮にも、人間として才能や力量があり、そしてまた根気がある人であれば、人間のあらゆる物事は、風流なことも卑俗なことでも、知りたいと思えば知ることができないものはありません。
自分自身が時計づくりの職人でなくても、時計がどのような仕組みで動くかの方法は知ることができます。
自分自身が弁護士でなくても、弁護士が論じる法律の筋道は理解することは決して難しくはありません。
ましてや、悪い若者たちが、遊び耽って、酒を飲んだり花札で争ったり、風俗で遊んだり、借金に心をくだいているような内情は、理解することはごくごく簡単なことであり、自分自身が自分で実際に試してみる必要はないことです。
短歌を詠む歌人は、いながらにして名所を知っていると言います。
少しばかり心を用いれば、若者たちのしている悪いことを探り、その内実の秘密も見破って、かえってその本人たちがまだ思い至っていないところまで論じてあげて、若者たちが驚くこともあることでしょう。
こうしたことは、ただ世の中をよく知った博識な立派な人物であって、はじめてでき、この任務にあたることができるものです。
今の社会においては、伊藤東涯先生のようであるだけでは自分で満足してはならない時代です。