現代語私訳『福翁百話』 第九十六章 「歴史についての議論」

現代語私訳『福翁百話』 第九十六章 「歴史についての議論」



世の中では何が正しいか間違っているかという議論がやかましいものですが、そもそも何を目的として正しく、何を目的として間違っているか、その目的とするところを根本的に明らかにしないと、何千万という言葉を費やしても正しいか間違いかという議論は聴く必要がないものです。


君主への忠義や親への孝行は正しいことであり、君主に忠実でないことや親不孝は間違っていることです。
ある国の臣下の人々が、誠心誠意、君主に対して忠実であれば、君主は心が安らかとなり、それと同時に社会も安泰となることでしょう。
ある家族の子や孫たちが、お互いに仲良くし合い、親や祖父母に孝養を尽くせば、年長者は喜び、さらに家庭の中も安らかで長く幸福であることでしょう。
どちらが正しいか間違っているかは本当に明らかなことで、三歳の子どもも簡単にわかることです。


しかし、この千数百年の間の歴史に照らし合わせれば、世の中の出来事のむきだしの現実の様子を観察するならば、人間の文明の程度は幼稚であり、智恵や道徳は不完全であって、その様子はほとんど言葉にすることもできません。
本当に驚き呆れる様子であり、忠義に反し不孝であることは臣下や子どもの立場の人だけでなく、自分自身は忠義に反し親不孝でありながらその不道徳をそのままに君主として親として振る舞う者さえべつに少なくありません。
臣下や子どもである立場であっても、そのような君主や親に対してどうすべきというのでしょうか。
本当にどう受けとめ処置すべきか困る境遇です。
したがって、身分が上の人も低い人も、老いも若きも、人としての正しい筋道や人間の情に従い、君主や親の身の上を安らかにするのみではなく、一国や一家のためには、たとえ年長者の心に逆らうことがあっても、ともかく社会の秩序や安定や無事を工夫しなければなりません。
この点において、臣下や子どもの立場の人の言葉や行為を評価して、単に君主や親の身に直接関係する忠義や孝行だけを言うのでなく、その観察する範囲を広くして、一国や一家の安定や危機がどうであるかを基準にして何が正しく間違っているか、何を得て失うのかを論じる根拠を定める必要があるということを見出だすことができます。


今日においても、智恵もなく愚かで悪い振る舞いばかりする年をとった一家の主がいて、その家の主としての役割を遂行できない人がいる場合、親戚が相談してその人を隠居させて、子どもに家を譲らせるか、子どもがいなければふさわしい養子を迎えて家の名前を継がせるという事例は少なくありません。
何よりもまず家を重視しているがためです。
国もまたそのようなものです。
国家をこそ重く見て、それと比べれば君主は軽く見るということは、昔の時代も認めていたことであり、結局は社会の安定を重視するという意味ですが、その実際の方法についてはただ一つというわけではありません。
結局は軍事的な手段に訴えて政権を継承するということもあります。
日本の場合、歴代の天皇の事はしばらく置くとして、鎌倉幕府から徳川幕府に至るまでの経緯を見ても、現実の様子を理解するに十分でしょう。
このように新陳代謝し交代するのは、要するにただ秩序の安定がどうであるかということだけによっており、仮に当時の権力者が政治によく注意して社会が平和であれば、その平和な世の中である間の君主を名君と呼ぶまでのことです。
どうしてかというと、国家の政治の目的は国民が安らかに生活するということに存在しているからです。


そうであるのに、昔から歴史家たちが、この要となる事実を見誤り、権力者の身がどうであるかを重視して、社会の秩序の安定を二次的な議論にしてしまい、他のことはさておいて家の名前は云々と熱心に議論してその君主の血統や家柄について争って議論するだけです。
それだけでなく、その血統や家柄が正当なものか不当なものかについても、そうした歴史家は時が経つとともに忘れ去っていくのですから、本当におかしなことです。


足利尊氏が幕府の将軍となった時は、極めて道理にはずれたこともしている人だったのですが、百年か二百年か経つ間には、その足利尊氏の子孫に反逆する者が、また第二の道理にはずれた人間と呼ばれて歴史家からその罪を悪く書きたてられることとなり、織田信長が足利幕府を倒して権力を握った経緯は非常に良くないと言われました。
しかし、さらに、豊臣秀吉織田信長の息子の信雄を愚弄して天下を握り自分の意志をほしいままにしたのはよこしまで悪賢いことと呼ばれました。
さらに、そのよこしまで悪賢いと言われた秀吉の子どもの秀頼を殺して天下を統一した徳川家康は、さらによこしまで悪賢いと歴史家は言います。
本当に際限ない様子であり、私の目から見れば、この種の歴史の議論は、国家の安定や動乱についての歴史ではなく、むしろ家系の系図の喧嘩の歴史であり、しかもその喧嘩が簡単に忘れられる喧嘩だと評価するだけのものです。


特に、困っていたのは、江戸時代の歴史家の頼山陽が、鎌倉時代の執権・北条氏についての議論する時のものでした。
執権・北条氏の歴代の七人は、わりとすぐれた主が多く、その社会の秩序の安定は足利幕府とは比較にならないほどすぐれていました。
当時の民の心は執権北条氏の統治に心服し、のちの時代までも長くその恩徳を忘れていなかったことは、足利幕府の末期に北条早雲がはじめは伊勢新九郎といっていたのに、関東で新たに新興勢力となった時に、わざと北条と称して周辺の人々の人気を得たという事実からも理解されることです。
特に、歴代執権の中でも、北条泰時などは、智恵も勇気も兼ね備えた一代の英雄だったことは議論の余地のないことです。
北条泰時が、よく国家を治めて社会の秩序と安定を維持した功績は後世が認めていることです。
それなのに、頼山陽はそのことを喜ばず、北条氏は寝床の上で源氏の国を奪った者たちだと非常に憎み、国家のために立てた泰時の勲功は、北条一門の罪を償うには不十分であるとして、北条の罪悪を書きたてて責めることを公言していたようです。
融通がきかないと言うべきものです。


また、北条時宗が、モンゴルの来襲を防いだことは、何千年経っても何万年経ってもずっと忘れるべきでないことす。
日本のために北条時宗が下した、この英雄の大英断に感謝して、今日もなお褒め称え続けるべきです。
それなのに、頼山陽は、ほんのわずかに、時宗は父や祖父たちの罪を償うのに十分だったと一言を不本意ながら誉めただけです。
筆の運びがいささかけちではないでしょうか。
もし万一、このモンゴルの来襲を防ぐという決断が鎌倉幕府の正統な将軍の決断だったならば、頼山陽はこの上なく大きな筆を振るって歴史に特筆し、あらん限りの褒め言葉を使い尽くしていたに違いありません。
それなのに、ただ残念なことに、北条時宗は将軍ではなく、しかも寝室の上で国を奪った北条政子たちの子孫であるために、日本の国家のためには偉大な功績があったものの、思うままに誉めることができず、そうかといって功績は功績であって黙って見過ごすこともできず、この事柄については頼山陽先生も随分と困っていたのだろうと私は推測しています。
結局、歴史家たちに自由で独立した自分の思想が存在せず、国家社会の安定と個人の身分や家柄との二つのことを混同して、名目と実質の価値の重さがどちらにあるかを見誤り、何が正しく間違っているかの基準を実質ではなく名目にのみ偏って置いたため、このような困った事態に陥ったというわけです。
知識人や学者はよくよく注意すべきところです。