現代語私訳『福翁百話』 第二十章 「夫婦はずっと仲良く」

『福翁百話』の第二十章を訳してみた。
要するに、ここの章は自由恋愛を批判しているわけで、離婚を否定することに主眼があるわけではないことは注意して読むべきと思う。


他の著作で、福沢は主に男性の不品行について随分厳しく批判している。
自由恋愛の名文で、当時の男性の不品行がまずますひどくなることをおそらく憂慮していたのだろう。



現代語私訳『福翁百話』 第二十章 「夫婦はずっと仲良く」



「男性と女性が一つの家庭を営むのは倫理の根本である」と言います。
いかにもそのとおりであり、自然の定めたことでしょう。


さて、自然の定めたことに従って、同じ家に男女が住むとして、その決まりをどのように定めるべきかといいますと、人間はおおむね男性も女性も同じぐらいの割合の数で生れてくるので、一人の夫と一人の妻が結婚するということもまた自然なことのようです。


ただし、「夫婦はずっと仲良く」と言い、一度結婚した夫婦は生涯離婚するべきではない主張に対しては、それに対して一つの説があります。


その説は、以下のようなことを主張します。
男性と女性が出会って夫婦となったのは、愛情によってです。
ですので、その愛情がなくなれば、別れるべきです。
お互いの健康の具合や、意志や気持の強さは、歳月が経つ間に変化せざるを得ないもので、したがって気持ちの通い合いにもおのずから変化が生じてくるのは自然な運命であるのに、すでに変化してしまった者同士を無理に強制して同じ家にいさせようとするのは自然の定めたことに反しているものです。
愛情がお互いにあって意気投合すればセックスして夫婦となり、愛情が終われば自由に別れて、さらに他の新しい相手を探し求めていくべきです。
などと言っておりまして、こうした説を名づけて「フリー・ラブ」、自由恋愛論と呼んでいます。


一見、自然な議論で聴くに値するようですが、昔から「夫婦はずっと仲良く」ということは、人間の倫理の最も大切なものとしてすでに習慣として形成されてきており、社会全体の仕組みもこの原則によって整えられてきたものですから、今になって急に変えようとしても、簡単にはいかないものです。


大体、人間の世界の道徳は、昔からの習慣によって生じているものが多く、この世界の誰もが見て良いものだとするものは良いものであり、悪いものだとするものは悪いことです。
たとえば、物が清潔か不潔か、というようなことは、対象となる物質そのものを科学的に分析し調査するならば、この世界の中にひとつとして不潔なものなどありません。
あるものを不潔であるとするならば、その物自体が不潔なのではなく、ただ人間がその感情において不潔だと思っているだけのことです。


ですが、この広い世界の多くの人が皆、ある物を不潔だと思うならば、そのことに従わざるを得ません。
科学的な議論をどれだけ多く積み重ねても、清潔か不潔かという議論にはなんら寄与できません。


ですので、今の時代の社会において、自由恋愛は天が命じることであり自然の道理に背いていないと主張したとしても、この世界の人の多数が醜悪な行為で不道徳だと思うならば、道理としてどうかという議論は隅に追いやられてしまいます。


ましてや、数千年もの間、人間の社会の家庭は今のような家族法・婚姻の決まりによって仕組みがつくられ、すべての秩序が整えられており、良いものだとされているのですから、自由恋愛論が道理としてどうかという議論は隅に追いやられてしまうことでしょう。


ですので、この自由恋愛論のようなものは、心の中で考えたとしても口に出して言うべきものではありませんし、たとえ思いきって口に出して言ったとしても、断じて現実には行うべきではありません。
人間の世界の歴史が始まって以来、今日に至るまで、文明の進歩においては、一夫一婦、夫婦はずっと仲良くということを最も重要な倫理として認められています。
仮にもこれに背くものは人間ではない動物だと排斥されるべきものです。