マーク・トウェインの『人間とは何か』の批判的考察


マーク・トウェインの『人間とは何か』は、人間とは自動機械のようなもので、外から与えられる力つまり教育と、もって生まれた気質の、二つによって何を自らの満足として求めるかが決まる。
そして、自分なりの精神的な満足をひたすら追求して生きるものだと述べる。


それはそれで面白い傾聴に値する意見だし、実際はけっこうこの本の中でなかなか深い議論や微妙な議論がなされていて、単純な利己主義や機械論というわけではないのだけれど、とりあえずそのことを踏まえた上で、疑問がある。


マーク・トウェインの意見だと、教育によって基本的に人は思想や感情や価値観が決められてしまう。
それらの外部入力だけが、人間の思想や感情や価値観を決める。
多少の個人差は、単に個々人の持って生まれた気質の違いという話になる。


しかし、ここ最近、たまたまマーク・トウェインと大体同時代の同じ国の出来事である、奴隷制の歴史についての本をいろいろ読んでいたので、マーク・トウェインの意見には以下の点で大きな疑問を持たざるを得ない。


というのは、黒人奴隷は、徹底して洗脳と暴力による恐怖によって、精神的にも身体的にも奴隷となるように外部から教育され、いわば入力され続けていた。
そして実際、不幸なことだが、奴隷であることを自ら喜び受け入れるような、そういう奴隷もいたようである。


しかし、中にはそうではなく、自由を求め、大変な苦労によって逃亡したり、自由を勝ち取った人々もいた。


また、教会などによってなされる、奴隷として主人に忠実であることが神に忠実であるといった洗脳がなされる中で、その価値観を受け入れてしまったものがいる一方、巧みにキリスト教を換骨奪胎して、かえって自分たちの心の支えとし、解放を希求する心の糧としていった人々がいた。


同じ外部入力の状態にあっても、その人の受けとめ方や換骨奪胎の仕方によって、外部入力のその人における使い方はかなり異なってくる。


つまり、人間は何らかの外部入力に常にさらされているのは事実だが、その受けとめ方や解釈や換骨奪胎の仕方において、その人の自由な選択の余地がありえるのではないかと私は思う。


たしかに、人間は環境や条件によって大きな制約を受ける。
その人の発想や思想の多くが、外部からの入力に大きく規定されるのは事実と思う。
しかし、それらに対して、どのような態度で接するか、どう受けとめるのか、どのように応答するかは、やはり人間の自由な選択がそこにありえるのではないだろうか。


全くの自由意志が成り立たないのと同時に、全くの自動機械説も成り立たないように思える。


それに、気質というのは、ある程度、自分自身によって変えていくことができるものではないだろうか。


マーク・トウェインにおいて、必ずしも否定されているわけではないと思うが、あまり重視されていないのが、自己教育ということだと思う。


人はある程度の年齢に達せば、自らを教育していくことができる。
好んで何かの書物を読んだり、徳性を心がけたり、誰か自分の成長に助けとなるような人々との付き合いを選択することにより、自らを教育することができる。


なので、気質と外部からの教育という入力だけによるのではなく、自己教育という自分自身による入力もまた、自分を形作っていくものになると思う。


もっとも、このように言うと、マーク・トウェインは、そのように自己教育を好むようになったのは、あなたの気質がそうであり、また周囲の教育がそうだったから、という議論になるのかもしれない。
それはそれで別にかまわないが、要はどの時点からであろうと、自己教育をその人が心がけるようになることができれば、しめたものだということではないか。


人間の自由意志や自己責任などは、たいしたことがないものかもしれず、かなり環境や条件に制約されるものだ。
しかし、それらに対する応答には、単なる自動機械ではない、個々人の自由な選択の余地があると思う。
その積み重ねが、自己教育として、自分を形作っていくことになるのではないか。


もっとも、よく読むと、マーク・トウェインも、自由意志は否定するが、自由選択は肯定するということを言っている。
案外と、上記のようなことを言いたかったのかもしれない。


自由意志も自動機械も否定して、環境や条件に対する応答における自由選択にのみ、自らの責任を絞っていけば、際限のない責任感に苦しめられることも、全くの無責任になることも免れることができる気がする。


今思えば、ルターもペラギウスも批判したエラスムスは、そのことを言っていたように思うし、もっと言えば、自力作善も造悪無礙も両方批判した法然親鸞も、そのようなことを言いたかったのではないかと思う。