「七転び八起き」はてっきり日本のことわざと思っていたが、箴言の中に全く同じ言葉があった。
偶然の一致か、あるいは聖書起源だったのだろうか。
もちろん、若干は言葉が異なる。
箴言のものは以下のようなものである。
for though the righteous fall seven times, they rise again,
but the wicked stumble when calamity strikes.
(Proverbs 24.16)
神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。
(箴言 第二十四章 第十六節)
神に従う人、正しい人は、七度倒れても再び起き上がり、曲がった人、神に逆らう人は、災難が打てばすぐにつまずく。
「七転び八起き」と違って、主語がより明快になっているところと、そうではない人との対照で述べられているところが、似ているとはいえ、日本のことわざとは異なる箴言のこの節の特徴だと思う。
この前、ちょうどリンカーンの伝記やイクイアーノやフレデリック・ダグラスの自伝を読んだ。
彼らの人生を思うと、この語句そのものと思う。
リンカーンは貧しい家に育ち、苦学独学するものの、自分がつくったわけでもない膨大な借金を抱えることになり若い間中呻吟した。
また、選挙にはたびたび落選した。
にもかかわらず、そのつど再び立ち上がり、ついに大統領にまでなった。
大統領になってからも、あらゆるバッシングにあったうえ、息子が病気で死ぬという痛恨の出来事があった。
それでも再び立ち上がり、決意を新たにして奴隷制廃止を成し遂げ、南北戦争という国難を乗り越えた。
イクイアーノやフレデリック・ダグラスは、悲惨な奴隷の境遇に置かれながら、自由になる希望を持ち続けた。
何度も運命に翻弄され、瀕死の重傷を負わされたり、あと一歩で自由の身になれるところをもっとひどい状況に引きずり戻されたりということを何度も繰り返した。
それでも再び立ち上がり、ついに自由を勝ち取り、自由になった後は奴隷制廃止のために努力し続けた。
彼らを見ていると、人間はいくたびも倒れたり挫けそうな時があっても、不屈の意志さえあれば必ず再び立ち上がることができると教えられる気がする。
日本の歴史を見ても、内村鑑三などは随分何度も苦しい目にあい、本人自身絶望のどん底に陥る時もあったようだけれど、それでもそのたびに再び立ち上がったのは、信仰の力があったからだろう。
田中正造や石川三四郎などもそうだったと思う。
徳川家康や福沢諭吉なども、七転び八起きの人生だったと思うが、彼らの場合は、キリスト教とはまた別に、その信念や信仰のよりどころがあったのだと思う。
たぶん、人間には二種類の人がいて、苦難や挫折にあった時に、再び気を取り直してまた立ち上がっていける人と、そこで折れたり自暴自棄になってしまう人といるのだと思う。
リンカーンやダグラスらのように、通常だったら後者になりそうな苦難を抱えながらも、あえて前者の道を辿ることができた人々が歴史上にはしばしばいる。
その根底には、たしかにこの箴言が述べるように、何らかの確固とした信念や信仰があったからと言えるのかもしれない。
私自身を振り返れば、すぐにへこたれて、打ち砕かれて、挫折していじける気持ちになることがたびたびあった。
今もまた若干そんな気持ちになることがあるが、七度倒れても再び立ち上がる生き方をしたいと、この箴言を読んでいると思うし、そういう勇気や元気が湧いてくる言葉だと思う。
また、この箴言の言葉の生き方を身を以て示した歴史上の人々を思うと、さらに勇気や元気が湧いてくる気がする。
たぶん、世の中の人々は知らなくても、自分が精一杯真っ直ぐに生きていれば、神か如来か、あるいは天というか、そういったものはきちんと見ていてくれるという視点があると、全くそれがない人よりは、ずっと強い気持ちで生きていけるのかもしれない。
この世を強く逞しく生きるには、実はこの世だけのものではない、別の視点や支えがあってこそ、この世もまた強く逞しく生きることができるのだと思う。