最近、イクイアーノやジョン・ニュートンの自伝を読んでいたら、
「神はいるのだろうか?」
と考えるようになった。
私は仏教徒だけれど、イクイアーノやジョン・ニュートンの九死に一生を何度も得てきた上で、神の恩寵を語り続ける文章を読んでいると、いるのかもなぁという気になってくる。
もっとも、彼らのそうした人生を、単に偶然、あるいは行いが良かったための業の作用による、という理屈で解釈することはできるだろうという気もする。
だが、要は、祈りに対して答えてくれる、そうした応答する存在としての「神」が、彼らの場合にはたしかにあったし、その心にまぎれもなく生きていた、と思う。
仏教も、神という言葉は用いないけれど、阿弥陀如来や観音菩薩というのは、呼べば応え、呼びかけてくださる、そうした応答する存在である。
ネイティブ・アメリカンっぽい表現をすれば、どちらもグレート・スピリットの表現の仕方に過ぎないということになるのかもしれないけれど、機械的な世界観ではわからない、応答する存在としての神仏というものは、やはり多くの人にとって実感として存在してきたし、実感する人にとってはたしかに存在するものなのではないかという気がする。