現代語私訳『福翁百話』 第九十八章 「大人の人見知りについて」
滔々と流れていくこの世の中では、人の心が人によって異なることは顔がそれぞれ異なっているのと同じようなものです。
善悪などという簡単な区別だけでなく、優雅さと卑俗さ、清らかさと濁り、剛毅さと柔軟さ、のんびりとせっかち、など人それぞれの持ち前があり、他人のことはさておいても、自分もまたなんらかの持ち前がある人間です。
ですので、この千差万別、さまざまに異なっている人間の言葉や行為を、自分が思う通りにしようとすることはそもそも無理な望みです。
もしそんなことを望むならば、その様子は、あたかも他の人の顔を自分の顔に似るようにしなさいと命じるのと同じです。
ですので、立派な人物が世の中を生きていくための方法は、まず自分一身の個人的な事柄を慎んで天にも地にも恥じることがないようにします。
言葉を高尚にし行為を活発にします。
さらに、物質的な事柄でも精神的な事柄でも独立を基礎から確立して、思いや考えを自由にします。
人と交際する際には、他人の自由を妨げることがないように努め、他の人が言うことや行うことは自由にさせてあえて問うこともありません。
場合によって、時たまこちら側の名誉や利益を害しようとすることが明らかな人がいる場合には、その人を近づけることなく、徐々に相手が心を改める時を待ちます。
特にその人を憎んだり怨んで報復しようとしたりすることは、わざわざするまでもないことです。
その他の人は、すべて平等に、良い人だ、立派な人だ、何の罪もない人だと思って、海や大きな河が小さな流れが入ってくるのを厭わないように、どんな人も受け入れ親しみ、本当は良くない立派でないも人物の場合には、その人が間違いを犯すのは無知がそうさせているのだと考え、その人を気の毒に思い、同時にその人に恥を与えるようなこと決してせず、自分の言葉や行為が清らかで高尚である姿をそのまま示して、知らず知らずのうちにその人が自ら改めるのを待つべきです。
こうしたことから見れば、立派な人物が自分を修養するのは、単に自分自身のためだけでなく、自然と他の人の模範や基準となって、世の中に利益を与えるものであると言うこともできます。
私がいつも言っている(本書五十二章参照)、自分の節義を守る心は古代中国の清廉潔白な生き方を貫いた伯夷と叔斉に倣い、人と交際する方法については古代中国であらゆる官職をいとわずに努めた魯の国の賢者・柳下恵に倣うようにするというのは、こうした意味です。
そうであるのに、不幸なことに、社会のリーダー的存在とも言うべき年輩の人々が、自分自身の心が立派であると信じて、他の人もまた一緒に立派になって欲しいと思うだけでなく、その全体的な気質や気風についてまで、あたかも自分の性質を人にそのまま写させようとし、思い通りにならないと不平不満を抱いています。
そもそも望むべきでない望みであり、思い通りにならないことはわかりきったことです。
このように、なんとも人を受け入れる度量がなく、他人のちょっとした一言やひとつの行為を気にして忘れることができないことこそ、窮屈なことでしょう。
窮屈なことによって自分が自分で苦しむのはまだよいとしても、その窮屈な思いはそのまま愛や憎しみの源となるところであり、何かしらの偶然の機会に自分の心にかなう人がいれば、その人を愛し信頼して、ひどい場合には飼い犬に手を噛まれるという状態に至ってもまだ気づかずにいたり、あるいは一度その人を憎むとそれ以来いかなる事情の変化があってもその人を近づけさせないことは、あたかも離婚した夫婦のようなものです。
結局、愛や憎しみによって接近したり遠ざかることは、物事の利害や得失よりも、むしろ感情によって起こることです。
ですので、その影響は、当事者だけの不幸にとどまらず、社会全般において禍根となることも少なくありません。
もしもその人物の心に伯夷のような潔白さがあるとしても、その潔白さとともに柳下恵の大きな度量がなければ、今の段階における不完全な文明の世界においては世の中を渡っていけません。
子どもの人見知りがひどい場合、飢えて泣いているのにもかかわらず他人のおっぱいは吸おうとせず、見慣れない人に会うと逃げ隠れしてまるで嫌っているか疑っているか恐れているか憎んでいるような姿であるのは、利害によるものではなく、愚かな感情がそうさせていることです。
子どもことであれば仕方ないことですが、大人であってはふさわしくないことではないでしょうか。
社会におけるリーダー的存在の立派な人物たちが、しばしば愛情や憎しみの愚かな感情を脱却することができず、人との付き合いの仕方において著しくひいきや偏りがあるのとともに、その範囲を狭くし、ついには世の中の物事の円滑さや完成を妨害するまでになるようなことは、大人の人見知りから生じる災いだと言ってもおかしなことではないでしょう。