現代語私訳『福翁百話』 第九十九章 「人間における名誉の権利」

現代語私訳『福翁百話』 第九十九章 「人間における名誉の権利」



自由は不自由の中にあると言います。
一般的に、人間には自らの主人となり自由に生きる権利があります。
王や貴族、大金持ちや名家から、そんなに裕福でもなく地位も高くない庶民の男性や女性に至るまで、賢さや愚かさ、強さや弱さ、幸福や不幸の違いはあっても、名誉・生命・所有の権利は全く同じであり、大金持ちの巨万の財産も、乞食の持っている袋の中にあるほんのわずかなお金も、両方ともその人に所属する私有財産であり、侵害してはならないものです。
生命もまた同様です。
名誉もまた同様です。


人の生命に、地位の高さや低さによる違いがないことはもちろんのこと、地位の高さや低さによって理由もなく人に恥辱を与えてはなりません。
人はそれぞれ自分の名誉や生命や所有の権利を守るものですし、そのことこそその人に属する自由です。
ですので、人間の自由と言えば、勝手気ままに自分が思うことを行い何の妨げもないようなことに聞えますが、自分の自由を思う存分発揮するのと同時に、他人の自由を大事にしなければ、自由において平等であることを見ることができません。
他人の自由を大事にするということは、自分の勝手な振る舞いを慎むという意味です。
それぞれの人が、多少の不自由を耐えて受け入れてこそ、はじめて社会全体の自由を得ることを理解すべきです。


今、このことを日常生活の現実に即して説いてみるならば、たとえば、謙虚にへりくだることは人間における美徳であって、人との付き合い方が丁寧なことは良いことですが、むやみに人の前でぺこぺこして恐縮するような様子は、ふさわしい範囲を逸脱しており、自分の身の大切さを忘れているだけでなく、こうしたタイプの人に限って、自分の目飢えと思う人間に対しては丁寧であるのと同時に、自分の目下の人間には横柄な態度をとり、理由もなく人を叱り飛ばして自分に対する無礼を咎めるなど、見苦しい振る舞いをする人が多いものです。
昔の、封建社会門閥があった頃の時代に、大名をはじめとして上級武士や下級武士、百姓や町人に至るまで、人間がいったい何百の段階の身分に分けられているかわからないほどで、それぞれ自分の身分の中に生きて少しも身分の違いをお互いに越えることなく、上の身分の人に対してはぺこぺこと頭を下げて自分から奴隷のように振る舞い、その代わりに、自分より下の身分の人を支配することも奴隷に対するような態度で、一方に対して縮みこむのと同じ割合で他の一方に対して膨れ上がり、目上の人に恥を受ければ目下の人に恥を与えるような、俗に言う江戸の仇を長崎で討つような、見苦しい様子がありました。
当時の、蘭学者などの西洋の学問を学んだ人々が、こうしたならわしや習慣に憤り、もっぱら心を尽くしてこうした封建社会身分制度を破壊しようとしたのも、人間に本来備わっている名誉や尊厳という人として守るべき道義があるということを知っていたがためです。
謙虚にへりくだることも、度が過ぎれば、間違いなく自由という大事な事柄に反するものだと知るべきです。


ところが、明治維新以来、士農工商の四民は平等で同じ権利の世の中となり、華族や役人の中にわずかに身分の違いが存在するだけとなりました。
そうしたわずかな例外は、ただ封建社会門閥の名残を残しているだけのものですし、夢から覚めて跡形もないようになることは、そんなに遠いことでもなく、物事の一般的な傾向の向かうところであることは明らかです。
ですが、こうした移り変わりの間に、さらに新しい弊害が生じることも、また仕方がないことかもしれません。
四民平等の世となり、人間の権利に重さの違いはないとは言っても、大事なことは、自分自身が自分の権利を大事にし、それと同時に、他人の権利を大事にするということです。
つまり、自らを重んじ他人を重んじる(自重重他)ということです。
それなのに、人々が権利を得たということで急に様子を変えて大いに威張るようになり、前後左右を顧みずに自分だけ得意になって、世間の咎めもないということで公然と、あたかも自分だけが尊く偉いような様子を気取っている人もいないわけではありません。
もしも、精神的・物質的に独立していて、他人に依存する必要がなくなってるのであれば、自らを尊ぶことがあってもいいのですが、その自らを尊ぶ人が、ともすれば人との付き合いにおいて他人をないがしろにしたり、他人に無礼な振る舞いをして、そのことを名誉なことだと認識しているような状態に至っていることは、もはや言葉も見つからないと言うべきことです。


一般的に、人間がこの世界において尊いものであるということの理由は、その人の道徳や正しさや気品や振る舞いにあります。
また、その才能や学問や智恵や能力にあります。
また、その地位や職業にあります。
また、その人のそれまでの履歴や功績や働きにあります。
また、その人の家庭が経済的に裕福かどうかということにあります。
また、その人の年齢が高齢か若いかということなどにもあります。
こうしたさまざまな無数の事情によって、自然と評価を受けることです。
それなのに、ただ単に四民平等で同じ権利だということだけを聞いて、自分を高くして、あげくのはてに他人に対して無礼を働くというようなひどいことに及ぶのは、一知半解、文明の世界におけるこの上もない愚か者と言うべきです。


世の中の乱暴な学生たちが礼儀を知らないということは珍しくないことなのでしばらく置くとして、学生以外の、たとえば昔の農民や町人たちで、そのままに成長し、文明に関する新しい知識は何も得ておらず、読書や論理的な思考の能力に乏しいことはもちろんのこと、ちょっと高尚な理屈の話になると、聴いてもその意味を理解することができず、ぼんやりとして、まるで無腸動物のような無反応な様子なのにもかかわらず、お金を計算することだけは巧みで、ついには巨万の財産を幸運にのって築き、昔であれば土百姓や素町人という低い身分に安んじていたところを、今はそうではなく、幸運によって得た財産とともにその地位もまた出世して、にわかに上流社会に頭角を現し、その社交の場において得意満面となって、その様子はあたかも封建社会の時代の庶民が苗字帯刀を許可されるという特典を得た場合と同じく、ややもすると年配の立派な人物や官僚に対しては何とも馴れ馴れしく接し、そのうちに親しさが無礼と変化し、人の目に余るほどの不作法を働くという人もいないわけではありません。
また、そうした官僚たち自身もまた低い身分出身の人間であり、権力の威光を笠に着て、空威張りして、そうした成り上がり者の空威張りとお互いに衝突する場合もあるようです。
しかし、仮にも人間の名誉や尊厳が大事だという本当の心があるならば、間違っているのは向こうの非であって、自分は自分の立場を重んじるはずなのに、そうできないのは新しく成り上がった人間の無知や軽率さだと言わざるを得ません。


私たち知識人や学識ある人間の中では、人権が平等であるという議論を論じるようになって久しくなります。
政府の役人は偉く民間人は卑しいという考え方(官尊民卑)は、人権平等の論旨に反しているために、その悪い弊害を正したいというのは、長年の私たちの願いです。
しかし、何事も、悪い弊害を正すことにおいて一番大切なことは、自分自身がまず率先して慎むということです。
自分自身が慎み、自分自身が大事にして、自然と他人のおごりたかぶりを止めるべきです。
そうであるのに、軽率に自分のことを忘れて、人から嫌われ人からさげすまれるようなことをするのは、ただ単にますます悪い弊害を増やしていくことに他なりません。
結局、そうした人々は、智恵や道徳と、その富や財産が、バランスがとれておらず、その身の力に余るほどの財産を幸運によって得て自分自身驚き、そして人も驚かそうとして、あげくのはてにおかしな狂った様子を演じるようになっているわけです。
ですので、謙虚に自らへりくだることも、おごりたかぶって他人を軽蔑することも、両方とも人間における名誉や尊厳という権利がどのようなものかを知らないものであり、まだ両方とも文明の本当の精神を語る資格のないものです。
ただ私が願うことを言うならば、このタイプの人々が心を転換させて学問を志し、自由に自らの考えや思いを進歩させて他人の思惑を気にしないようになり、それと同時に細心の注意を払って他人の権利を大事にして、自由は不自由の中にあるという意味をよく理解できるようになり、自分自身でこれらのことに気付く日が来ることを待ちたいということです。