現代語私訳『福翁百余話』第一章 「人生の独立について」
「人生の独立」とは、文字に書けば難しいことのようですが、それほど深い意味があることではありません。
ただ他人に迷惑をかけてまで世話にならないようにすることです。
生れてから、両親に養い育ててもらうことは、人間にとって普通に決まっていることです。
両親は子を育てるのは当たり前と思っていても、子どもは親の恩を忘れることはありません。
このことは別の話であって、独立についての話によってのみ判断すべきことではありませんが、しかし、成人となって両親の手から離れて一人前の男性や一人前の女性となった以上は、もはや他人の保護を求めるべきではありません。
他人はもちろん、両親に対しても、両親に面倒をかけるのは独立の本来の主旨に反するものです。
さて、独立ということにも、精神と身体の二つの種類の独立という違いがあります。
衣食住の物質的な事柄の必要性を自分の力で解決することを「身体の独立」と言います。
社会におけるコミュニケーションや、世の中を渡っていく方法において、自分が思うことを言い、自分が思うことを行い、全身をはっきりと冷水で洗った時のように、きっぱりと、ほんの少しも自分の正しさや志を曲げることなく生きていくということを、「精神の独立」と言います。
この二つの独立を両方とも完全に果たしてこそ、はじめて本当の人生というものです。
しかし、身体の独立と精神の独立と、どちらがまず身近なことかと尋ねるならば、まずは物質的な事柄における独立を獲得しないことには、精神の独立は結局達成する望みがないことだと理解すべきです。
この暑苦しい人間の世界では、人々は誰も皆、精神の独立を欲しがらない人はいません。
立派な人物やひとかどの人はもちろん、人力車を引く仕事をしている人は、土を掘る仕事をしているそんなに地位は高くはない人も、むやみに人に屈して自分を欺くことは好みません。
その品格や気品に、教養のあるなしや粗野かこまやかかといった違いこそありますが、一般的に言って、人は皆、自分が何を言うのか何を行うのかについて、自分の心の通りに生きて遠慮しないで済むことを願います。
しかし、そのことが困難になるのは、衣食住の生活という一事があるからです。
衣食が足らなければ、言葉も行動も思いのとおりにはできません。
いつも一歩引いて、自分から身を縮める以外ありません。
身を縮めることはまだ我慢できるとしても、衣食のために自分から進んで思ってもいないことを言い、したくもないことを行い、あげくのはてにはわずかな給料のために腰をかがめて、社会における人付き合いのために他の人とともに醜い姿となり、自分でわかっていながら自分で自分の本心に背いて生きている人もいないわけではありません。
このようなことは、つまり、物質的な事柄の独立を得ていないために、もうすでに精神の独立も忘れ果ててしまったものであり、結局一人の心の卑しい人間となることを避けることができません。
容赦なく評価するならば、詐欺師がお金を得て楽をしようとして法律を犯し、詐欺を働いている間に法律によって逮捕されて自由がない身となって、楽を求めるための手段がかえって苦痛をもたらすものとなったようなものです。
ただ気の毒だと言えます。
ですので、人間が世の中を生きていくための方法においては、まず衣食住の物質的な事柄の独立を工夫し、その後に心の独立に広がって達するとうことは、当然の順序です。
ともかく、自分の一身や自分の家庭の生計は、自分の力によって解決することです。
そして、それだけでなく、その努力の最中においても、自分の正しさや志を曲げるような卑劣なことは決してすべきではありません。
つまり、人生の道は簡単ではないというわけで、「独立」という言葉は、理解することは簡単ですが、自分の身において実際に行うことは難しいことだと理解すべきです。