現代語私訳『福翁百余話』第十九章 「大きな節目においては親子や夫婦の間でも遠慮する必要はありません」

現代語私訳『福翁百余話』第十九章 「大きな節目においては親子や夫婦の間でも遠慮する必要はありません」


自分が思うことを実行し、少しも自分の志や正義を曲げることがないこと。
それを独立して生きることと言います。


独立して生きることがはたして大切なことであるならば、このことのためにはすべての他のことを振り返ることなく、この天地の間で尊い存在はこの自分一人なのだと気付いて、日常生活で人と付き合う時は寛容でおおらかであることをモットーとし、人間の言葉は聞き流して、どれも皆良いものだと言えるぐらいに構えながらも、ひとたび大きな節目に際しては、親子や夫婦の間であっても遠慮会釈は無用です。


たとえば、貧しく困っている家の娘が、父母の苦労を救おうとして、自分の身を娼婦のみじめな世界に沈めて、自分でも恥じることを知らず、世間もまた不思議に思わず、かえってその人を親孝行な子どもだなどと呼ぶのは、大間違いのことです。
親が困っているならば、娘もそれなりに働くべき仕事がありますし、女性の身でできる限りの仕事をして家族のために尽くすことは当然のことですが、娼婦になって売春するなどということは女性のするべきことではありません。
その思慮分別もなく、お金のために尊い自分の身を汚すのは、これこそ人であって人でないものであり、そのような人でなしのすることを自分自身の意志ですべきでないことはもちろんのこと、たとえ父母の命令であっても断固として拒否すべきです。
遠慮会釈には及びません。


事柄は全く異なりますが、私の身の上にも似たようなことがありました。
明治の初め、ある大金持ちの人が私立の学校をつくるということで、その前後にいろいろと相談にあずかり、先生の紹介などをしているうちに、自然とその大金持ちの主人と親しい間柄となり、その主人は私にその学校を管理させたいと希望しているようでした。
当時、私の家には二人の息子と二人の娘がおり、男の子は八歳と六歳ぐらいで、まだ教育の年齢でもありませんでしたが、私が心の中で考えていた第一のことは、この子どもの成長を待って外国に留学させよう、それには大金が必要になるけれども家には財産はないし、だからといって政府のつてを求めていわゆる官費留学生にするなどということは卑怯卑劣なことで実に面白くないことで、何とかして子どもが成長するまでにできるだけ財産をつくりたいと思い、妻と相談して家計を整理して節約を主として、趣味もせず、旅行や行楽にも行かず、ただひたすら子どもが外国に留学する費用をとばかり心がけていた時のことだったので、ひょっとしたらそのことを口に出して誰か他人に話したこともあったのかもしれません。
そんな時に、ある日のこと、その学校の主人である大金持ちがやって来て言うには、
「以前から申しておりましたとおり、学校の管理をなんとか引き受けていただきたいと思います。
そのために報酬として月給を支払うというのも面白くないと思ったので、ここのひとつのアイデアがあります。
今、百万円とか百五十万円(原文は一万円とか一万五千円)のお金を差し上げるので、お子さん二人の海外留学の費用に貯金すれば、かわいいお子さんが成長するとともにその資金もまた利息でどんどん増えていくでしょうから、外国に留学の目的は今から確実に果たせることが予測されます。
いかがでしょうか。」
と言いました。
それを聴いて、私も心の中が多少動かなかったわけではありません。
百万円などという大金は、今まで目に触れたこともない金額です。
今からこれを自分の持ち物にすれば、子ども二人の留学費用も苦労せずに済み、本当に好都合だとは思いました。
しかし、「ちょっと待てよ、あの学校を管理する仕事は初めから自分は気が進まないことであり、その気が進まない理由は今も変わっていないのに、今見たこともない大金の話を聴いて不本意ながら相手方の話に応じるのは、子どものために自分の志を曲げることになり、子どもを愛する気持ちは切実ではあるけれども、親である者が心に思ってもいないことを行って子どもに尽くすという道理はあるはずがない。
家の貧富は運次第であって、数年後になってから海外留学のことが思い通りにならないことがあっても父母の罪ではない。
不幸にして子どもが海外留学できなかったために学問ができなかったと言われることがあるとしても、親の志は曲げるべきではない。
このことに至っては親子の間でも他人と同じだ、遠慮会釈するには及ばない。」
と一人で心に決断し、厚く先方の好意に感謝して、体よくその申し出を断ったことがありました。


その後の年月の間に、私の運命もまんざら悪いものではなくて、書いた本や翻訳の仕事によって家を成して、全く他人を煩わせずに子どもの海外留学に支障がないようになったのは幸運なことでしたが、場合によってはその反対に、家の運命もだんだんと貧乏になったり、あるいは私が短命に終わってしまってそのために子どもの教育に思い通りにいかないことがあったとしても、私の本心は以前に教育の資金をあげようという申し出を断ったことを後悔しなかったことでしょう。
なぜならば、子どもの教育は家の貧富に左右されるものです。
父母である者が、衣食住の費用を節約して教育に回すのは当然のことですが、さらに一歩を進めて卑怯なことや卑劣なことをしてまで子どものためにするというようなことは、物事の価値判断を誤るものだからです。


ですので、女性が親に孝行するために娼婦となって身を汚すことも、男性が子どもを愛するために志や正義を曲げることも、両方とも人間の感情に振り回されていることで、本当に勘違いが起こるであろう事柄です。
幸運にも私はこの危険な状況を逃れて、今に至るまで心の底に曇りをとどめず、心もすっきりとして生きています。
人間の物事は非常に多岐にわたり、感情や物事が複雑にからみあっていますが、この世の中には、私のかつての様子を連想させる場合も多く、その時にあたって進退に迷う人もいることでしょう。
その決断はもちろん他人に相談すべき事柄ではありません。
ただ、自分自身が独立して生きること、一身の独立だと、深く自ら信じて、自分の一身のほかには尊ぶべきものもない、愛するべきものもない、仏陀の言葉で言うところの「天上天下唯我独尊」ということを自覚して、思うことを断行すべきです。


『福翁百余話』完結