現代語私訳『福翁百余話』第十八章 「貧しさや富や苦労や喜びは循環することについて」

現代語私訳『福翁百余話』第十八章 「貧しさや富や苦労や喜びは循環することについて」



人間の智恵が完全に発達することを求めるならば、貧しさや富や苦労や喜びをすべて味わい尽くすほど良いことはありません。
生れからはなんとか飢えや寒さを免れるぐらいの貧しさで、わずかに教育のための学資を得て学問修業し、成長して出世して財産をつくり、年を取って子どもを養育し修行させるのと同時に、自分も老後の生活をよく養い、そして安らかに死んだその後には、別に大した遺産もないと、このように順番良くいけば、その身は一代の間に貧しさや富や苦労や喜びの体験を経て、この現実世界の酸いも甘いもなめ尽くし、いわゆる海に千年・川に千年であって、庶民の様子もよく知っているだけでなく上流階層の様子もよく知り、人間のあらゆる物事を聴いても驚かず、見てもあやしまず、家庭生活でも社会生活でも柔軟に自由自在であり、人生の道のりおいてこだわることがなく、一代目が死ねば二代目が相続し、三代目、四代目と同じようであり、どれも自分自身で自分の一代の間に財産をつくりだし、また自分自身で使い尽くして人生を終えるので、貧しさや富や苦労や喜びはちょうど人間の年齢とともに変化して、本人だけが愉快で安らかであるだけでなく、社会や公共の大きな範囲においても無事で活発であり、これまた一種の黄金世界とも呼ぶべき様子となります。


しかし、不幸なことに、人間の歴史が始まって以来、社会のありかたは私がいま想像して描いたものとは反対で、世の中には貧しい人もいれば豊かな人もいて、その苦しみと楽しみの違いは明らかです。
そして、貧しい苦しさと、豊かな楽しさとは、それぞれ別個に独立して存在しており、一人の身が親しく両方を体験することができず、貧しい人は貧しい家に生れて貧しく死んでいき、豊かな人は豊かな家に生れて豊かに死んでいきます。
その様子は、寒い中に生れて寒い中に死ぬことと、春の暖かな中に生れて春の暖かな中に死んでいくようなものであり、一人の人間の身が四季の寒さも暖かさも冷たさも暑さも知るということがほとんどないのは残念なことでしょう。
このようなわけでは、人間の智恵や道徳が不完全にしか育たないことを変だと思う必要もないことでしょう。


たとえば、徳川幕府の時代の封建諸侯のように、関ケ原や大阪の陣の戦争以来、二百七十年もの間、春の暖かな中で生れては死んで、たらふく食べては女遊びに耽って、いまだかつて世の中に風や雪の苦労があることを知らない存在は、その愚かさもまたおおむねあのようになるというわけです。
また、それと同時に、貧しい百姓たちは、先祖以来何代経ても相も変わらず元の百姓で、智恵も分別もなく、貧しい衣服や貧しい食事で、空しく農業の苦労の中で生れては死んでいくばかりでした。
豊かな者も貧しい者も、両方とも人生の本当の姿も本来つくすべきつとめも知らなかったわけです。


ですが、封建制度が崩壊して以来、世の中の様子は一新されて、貧富の変化もだんだんと激しくなってゆき、大名やその他の世襲の金持ちで簡単に倒れる者もいれば、極貧の貧しい庶民から一躍急に巨万の富を築く者もいます。
昔の豊かな家が没落することはしばらく置いておくとして、ちょうどそれに取って代わった新参の成り上がり者こそ、自分の身一代で苦しい境涯から楽しい境遇に到達し、つぶさに酸いも甘いもなめたものですので、非常に素晴らしいとは言えますが、この新しく豊かになった人が死んだ後は、その二代目・三代目はどうなるだろうかというと、その環境は全く一代目と反対で全然同じではありません。
古い家であっても新しい家であっても、豊かな家の子は生れながら豊かであり、貧しい苦しさの本当の姿を味わう方法はありません。
貧しく苦しい庶民の事情をわからない人は精神的に完全なものではなく、したがって身体的にもまた完全であることができません。
たとえたまたま幸運にも生まれつき健康な身体があったとしても、それを維持するための方法を知らないので、結果として完全にすることができず、結局精神も身体も愚かで弱い人に新しくなるだけです。
場合によっては、二代目・三代目は初代の人の影響によって、自然と家を維持していこうとする希望を持つ場合もありますが、四代目、五代目とその心を伝えていこうとするのは
望むことができない望みであり、仮に幸運にも初代からの家の名前を存続することがああっても、血統から言えば早くもすでに断絶するか、また零落してどこにいるのかもわからなくなることでしょう。


ですので、世間において数多くの昔からの、あるいは新しい金持ちの家や、紳士、貴族などの人々は、子孫がずっと続いていくための方法を工夫する場合もあるようですが、今の富によって家におり、その豊かな家をそのまま子孫に伝えてずっと続かせていこうとするのは、たとえば家の中で伝染病の細菌を培養して消毒する方法を知らず、この家に住み続けて病気しないようにしなさいと命令するのと同じです。
すべて何も役に立たない努力だと言うばかりです。


世の中の現実はこのようなものなので、私が想像に描いたように、貧しさや富や苦労や喜びを一人の人が人生の間に体験して、ゼロから出発してゼロに帰るという望みは、一人の人の人生では見ることができず、その期間を延長して、三代、四代に渡って実行されているもののようです。
一代目がゼロから出発し、大いに家を興して苦労している最中に苦労しながら死ねば、二代目は何も努力もせずに安らかに暮らして大いに散財し、あたかも一代目が老後に行うべきことを二代目が人生で行っているようで、三代目、四代目に至るとどんどん散財するにつれ、どんどん失望して、ついには精神や身体の置き場を失うことは、つまり一代目が死を迎えるのと同じです。
こういうわけで、一人の新たな金持ちの人の人生が終わりを告げようとするその間に、また努力して世の中の役に立つ別の貧しい人が現れ、努力して仕事をして、ついによく名声を得て家を興し、子孫に伝えることはいつものとおりで、その子孫がその家を滅ぼすこともいつものとおりであり、新陳代謝は限りないことこそが、文明の世界の不思議な光景であることでしょう。


ですので、この貧しさや富や苦労や喜びの新陳代謝は、今のレベルの文明においては、ほぼ定まっている決まり事であり、避けることができないようです。
その成り行きの順序を想像すれば、本当にはっきりしていることで、掌を指さすようなものです。
ですので、子孫がずっと続いていくための方法を工夫する人々も、たとえその家の名前や家業が滅びていくことを永遠に防ぐことはできないとしても、その滅びる時期を延ばす工夫はあることでしょう。
よくよく考慮すべきところです。