現代語私訳『福翁百余話』第十六章 「貧しい学生たちの苦しい境遇」

現代語私訳『福翁百余話』第十六章 「貧しい学生たちの苦しい境遇」



文明が発達するのは気候風土に恵まれない寒い国であり、大きな功績を成し遂げた偉大な学者は貧しい家の出身に限られていると言われます。
歴史の示すところによれば、たしかに事実のようです。
寒い国においては、あらゆるものが不自由であるために、人間が努力して活発になり、貧乏は骨身にしみて苦しいので若者が勉強し努力するようになり、その活発さや勉強の結果、かえって思ってもみない結果を生じさせたというだけのことです。
寒さや貧しさが直接的に物事に利益があるとするならば、道理として大間違いの話です。


一国の社会の産業を進歩させ、豊かで強くするためには、自然に存在するエネルギーを利用して、そのエネルギーに人間の智恵を加えることほど好都合なことはありません。
若い学問をする人の学業を助けて世の中の役に立つ人物になるようにさせるには、不自由なく学資を支給して心身を学問一筋に専念させるよりも良い方法はありません。
そうであるのに、今現在の現実においてその反対を見るのは、暖かい国の人が天から与えられた幸福に慣れて怠惰に陥り、裕福な家の子が家の財産が豊かなために調子にのって勉強もせずに流されていくことがあるためです。
本来は別の種類の問題であり、別に考えるべきことがらでしょう。


ですので、今の世の中の父兄たちが、それなりの財産を持っている家でありながらも、家の子どもを戒めるためにともすれば今までの歴史上の事例を持ち出して、学生である者は貧乏であってはじめて学業を成し遂げることができると言って、わざと学資を節約して不自由をさせて、そのことによって不摂生をさせて、ひどい場合は学問や教育を価値の安いものと考えて、月謝の金額の高さまでを計算する人もないわけではありません。
結局、そうした人々は、自分自身が貧しい学生の苦しい境遇を知らず、その苦しい境遇に豊かな資金が恵まれればどれほどの利益があるかも理解せず、漠然とただお金を惜しんでいるだけです。
おかしな表現を用いるならば、「学問を知らない人の盲目的なけち」(学問知らずの盲吝)と言えます。


数年前、私が家の記念のためにひそかに書いた「『ペルの築城書』についての覚え書き」というものがあります。
すべて、私の個人的な事柄に関することですが、これを一読しても、貧乏な学生の苦痛は知ることができることでしょう。



「『ペルの築城書』についての覚え書き」



「私・福沢諭吉が二十一歳の時、いや、実は十九歳三カ月だった時、つまり安政元年寅年の三月、故郷である豊前中津を去って長崎に行き、はじめてオランダ語の原書やアルファベットを学びました。
家はもともと貧乏だったので学資がなく、当時長崎にいた中津藩の重臣・奥平壱岐という人の取り持ちで、一時は長崎桶屋町にあった浄土真宗光永寺というお寺に居候になり、一時は当時は人気があった砲術家であった長崎小出町(大井出)地役人の山本物次郎という人の御宅に居候になり、わずかに食べ物を得る有様で、アルファベットを勉強するためのしっかりとした先生に入門することもできず、時にはオランダ医学の医者の玄関に行ってその弟子の人たちからアルファベットの読み方を教わりました。
オランダ医学の先生というのは、石川桜所、楢林健吉、松崎鼎甫、その他の人たちでした。
また、時には、オランダ語の通訳であった楢林栄七などの人々に頼んで、その人たちが閑な時にアルファベットの書き方を学んだりするなど、非常に不自由でした。
長崎にいること一年、安政二年卯年三月、長い間居候として恩を受けていた砲術の先生の山本物次郎の家を去って東に向かい、ただちに江戸に行こうという志を持って大阪まで来たところ、ちょうど私の家の兄が大阪にいて、中津藩の蔵屋敷におりました。
兄は私が東に向かうのを無理やり止めて、大阪の緒方洪庵先生の適塾に入門させました。
緒方先生の塾にいること一年、安政三年辰年の春に至って学業も少し上達したと手ごたえを感じていました。
ところが、同じ年の三月、熱病にかかって大変危険な状態になり、五月の下旬、家の兄とともに中津に帰りました。
この時兄もリュウマチの病気を患っており、兄弟ともに病気で衰弱した体で、二年間離れて暮らしていた年をとった母に再会して向き合った時には、一喜一憂、非常に哀れな状態でした。


中津に帰省して病気のあとの養生におよそ二カ月を過ごし、同年七月初旬、また大阪に行き、学業を再開してわずか二カ月後の九月中旬、家の兄の訃報が届きました。
慌てて家に帰ると、すぐに親戚が取り計らって、私・諭吉はもうすでに福沢家を相続することに決まったと聞きました。
私は、悲しくて、驚いて、大きな失望を味わいました。
心は麻のごとく乱れてました。
すでに福沢家を相続することになった以上は、藩の掟によって家の相続が間違いなく命令されることになり、小役人の末席に連なってあくせく働かなくてはいけなくなります。
親戚や友人たちはおめでとうと祝福するばかりでしたが、私・諭吉においては、勉強しに行って本を読みたいという思いが鬱勃と起こって自分では抑えることができず、身体は中津にいても心は空のかなたで、自分自身以外は皆敵のようなもので、藩のすべての人において一緒に語り合うことができる人はいませんでした。
この間、わずか二カ月余りでしたが、一生涯で最も不愉快な時期であり、この時の日々は今もなお忘れることができません。


当時、先に述べた奥平壱岐も帰省しており中津にいました。
ある日、私・諭吉が奥平壱岐の家を訪ね、話がオランダの学問のことに及ぶと、奥平壱岐は一冊のオランダ語の本を取り出してきて、これは先日長崎で二十三両もの値段で買った最新の舶来のものだと見せてきました。
私・諭吉が、その本を取ってみると『ペルの築城書』であり、人生ではじめて目撃した西洋の軍事に関する書物でした。
ですので、心の中ではひそかに羨ましくてならなかったとは言え、当時の二十三両は、中流の家庭が十家族ぐらい養える大金で、貧しい下級武士には想像もできない大金でした。
もちろん、自分の力ではその他に買うことができる品物ではありません。
しばらくこの本を借りて読みたいとしていも、常日頃の奥平壱岐の性格からすれば、また私・諭吉と奥平壱岐の関係からしても、決して貸してくれないことはわかっていました。
ですので、わざと何も言わず、ただぼんやりとそのオランダ語の原書を手に持って、繰り返し眺めるだけでしたが、急に一つの策を考えて、奥平壱岐に対して、
「本当に生れてからはじめて見た宝のような本です。
全部を読んでみたいとは望みません。なにとぞ、目次のおおまかな概略だけでも理解したいので、つきましては大変申し上げにくいことですが、五、六日の間お借りできませんでしょうか。」
と、ぜひにと懇願したところ、奥平壱岐も気の毒に思ったのでしょうか、それならば五、六日間ということで貸してくれました。


私・諭吉は、あたかも竜宮城の宝石を獲得したような心地で走って家に帰り、即刻筆と紙を用意して、写本をつくる作業に取り掛かり、昼間も夜も一日中筆を手から離さないこと二週間ほどで、二百ページぐらいのその原文と図面二ページを写し取りました。
その間は、一切来客を断りました。
当時は、藩の公用で、御固目番という城の見張りの当番をすることもあったので、番所
筆と紙を持参して、夜更けに人がそれぞれ持ち場についた後に書き写す作業にとりかかるなど、極秘の秘密事項にしていまだかつて知る人はいませんでした。
ただ、母だけは私の挙動が不審なのを察して、毎晩寝ずにいるのは不養生ですよなどと戒めたこともありました。
字を写し終わって、さて本文と照らし合わせる作業に至ると、一人の手ではできないので困っていたところ、幸いにも中津藩の医師の藤野啓山という人が少しだけオランダの文字を知っており、以前から仲が良かったので、夜にひそかに藤野の家に行って原文と写本の読み合わせをお願いし、三回、五回と行って終って、前後およそ二十日の間に書き写す作業がすべて完成しました。
その時の喜びはたとえようもないものです。
そのまま、日ごろの表情で、借りていた原書を奥平壱岐に持って行って、まずはお礼を述べて、返却が遅れたことを謝ったところ、さすがにどのような持ち主であっても、精密な一冊のオランダ語の本を人に貸してわずか二十日の間に写し取られたという疑いの思いは全然あるはずもなく、穏やかに会釈してお互いに別れました。


この出来事は、本当に陰険で不良がするようなことで、道徳の上からはあるまじきことですが、若い血気盛んな貧しい学生が、一時の熱に浮かされて行ったものであることでしょう。
今から考えれば、貧しいことは人を良くない方向に導き、困ることは人を活発にさせるということの一例として見ることができるだけのものです。


この原書の写し取りの事例によってもまだ足りません。
翌年の安政四年巳年の早春、大阪に再び学びに行った時のことです。
この写し取った本を携えて緒方洪庵先生の適塾に戻り、勉学の傍ら、翻訳を試み、数カ月かかって全部、六冊を翻訳し終えました。
つまり、それがこの『ペルの築城書』というタイトルの翻訳書です。
その写しも図面も私・諭吉の自筆です。
まさしく、私自身が西洋の書物を学ぶようになって一番最初の大きな仕事だったとするものです。
ですが、当時の時勢ではもちろん翻訳書を出版するような思いもなく、またその方法もなく、ただ二、三人の友人に見せただけのことでした。


翌年の安政五年午年の冬、江戸の藩邸に呼ばれた時にも、この本の原書と翻訳書を両方持参して行き、機会があれば当時の砲術家などへ示してみましたが、ただそれだけで何の役にも立ちませんでした。
ですが、この時、江戸の鉄砲洲にあった中津藩の藩邸の中に小さな塾を開きました。
その生徒の中に伊勢の津藩の藩士・米村鉄太郎という人物がいました。
米村鉄太郎は、その津藩において専ら軍事制度のことに携わっていると聞き、彼が津藩に帰る時にこの本の原書と翻訳書をあわせて贈り物としてあげました。
なので、私・福沢諭吉の家には何も残りませんでした。
一度は大変苦労して、人の物を盗むようにして筆写し、そして今度はこれをぼんやりと他人に贈り物としてあげたというのも、学生の心はあっさりしているものだなあと今にして思います。


明治十四年の夏、伊勢の山田にいる、昔からの知り合いの古田杏祐が東京にやって来て私のもとを訪れた時、ふと昔のことを思いだし、「今は米村鉄太郎はどこにいるのだろうか。二十数年前このような原書と翻訳書を贈ったのだけれど、今もまだ彼の家にあるだろうか。もし残っていて、今は不要ならば返してもらって、私・福沢の記念に持っておきたいのだが」などと話したところ、古田は帰郷したあと、川北元立という伊勢の人で、大阪の緒方洪庵先生の適塾において同窓生だった者とともにあちこちと探してくれて、米村鉄太郎がいるところを見つけだし、翻訳書六冊と原書についていた絵図二ページとを送ってくれました。
この図面は原文の写本に付属していたものですが、翻訳書の絵図と間違えて送ってくれたものだと思います。
実に、明治十四年の十一月十四日のことでした。
不思議なめぐりあわせと言えます。
ただし、アルファベットの原文の写本は、以前、かつての津藩に献上したということで、手に入れることができませんでした。


ああ、昔を思えば一場の夢のようです。
以前、中津の留主居町にある粗末な家でこの原書を写し、その翌年大阪の緒方洪庵先生の適塾で翻訳したのは、私・諭吉が二十二、三歳の年齢の時のことで、今を去ること二十五、六年前のことです。
人生、年をとると、昔をなつかしむ思いが切実になってくるのを感じます。
ですので、この出来事の一部始終を書き記して、この写本に添付します。


明治十四年十一月十八日夜、東京三田 福沢諭吉 記す。」



当時、私が珍しいオランダ語の原書を一目見て羨ましさをこらえきれず、ちょっとこれを借りてひそかに写本づくりに取り掛かり、二十日ほどの間、ほとんど一睡もせずに写して盗みとった時のその苦労は、本当に言葉では言いあらわせないものでした。
ともかく、不正なことであって、特に身分の低い者が身分の高い権力者を欺いた罪があることであり、人に知られては大変なこととなるし、また写本づくりと途中で原書を返却するように催促されたら半ば徒労になるなどと、あれこれと思いはかけめぐり、不眠で書き続ける苦労にさらに大いに心に負担がかかったものです。
幸いに、物事が都合よく運び、目的を達成しました。
しかし、一歩下がって考えてみれば、この時に二十三円のお金さえあれば、このような危険を冒す必要はなく、自分で別に長崎に注文して同じ原書を買う方法もあったことでしょう。
この出来事の原因は、ただ、私・福沢の家庭が貧乏だったということにのみあります。


さらにこの他にも、貧しい学生の悲しみを数え上げれば、貧しさのために過労になり、貧しさのために学業を中止せざるを得なくなり、貧しさのために粗末な食事を食べ、貧しさのために病気にかかるなど、数えきれない悪い出来事があって、たくさんありすぎて数えきれません。
いったい、どんな人が貧乏は学生にとって薬になるなどと言うのでしょうか。
私はその正反対に、学生の勉強や進歩を妨げるもので貧しさほど過酷なものはないとはっきりと言います。
世の中、多少は財産を持った人たちが若者を教育しようとするならば、日ごろの日常生活においてその家庭の雰囲気を良くしてまずその子どもの道徳心を養い、ルールやマナーに違反しないようにしてきちんと躾し、さらに躾けるのと同時に、少しでも教育や学問に関連する費用ならば、思いきってお金を豊かに使うことを私は祈っています。