- 作者: 白石寿
- 出版社/メーカー: 海鳥社
- 発売日: 2001/06/01
- メディア: 単行本
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島村志津摩は、幕末の小倉小笠原藩十五万石の家老だった人物。
名門の家に生まれ、若くして家老になり、藩の近代化や藩政改革に努めるが、守旧派の小宮民部によって蹴落とされ、江戸表に左遷された。
しかし、小宮民部のもとで幕府寄りの政策を採り続けた小倉藩は、隣国の長州と険悪な仲になっていき、第二次長州征伐では、長州と全面戦争に突入する。
開戦の当初、島村志津摩は一部隊を率いる将に過ぎなかったが、機先を制して関門海峡を越えて長州を先制攻撃することを主張。
しかし、幕府の上層部や、小宮民部にその意見は退けられた。
そうこうするうちに、長州軍は関門海峡を越境して小倉藩に対して攻撃を開始。
小倉藩の軍隊は連戦連敗を重ね、幕府や諸藩の兵は傍観して何もしなかった。
幕府軍総督だった老中・小笠原長行は、大阪で将軍家茂が死去したと聞くと、小倉藩に無断で単身軍艦で逃亡。
かくて、幕府軍は総崩れとなり、小倉藩はわずか四歳の藩主以下武士とその家族のすべては家財をまとめて、小倉城と城下町を自ら焼き、香春方面へと逃亡することになった。
この小倉藩の決定的に不利な状況の中で、白羽の矢が立って全軍の指揮官に就いたのが、当時三十代後半だった島村志津摩だった。
島村志津摩は、全軍の士気を引き締め、奮い立たせ、かつ農民から募兵して義勇軍を結成、巧みな用兵によって長州軍に遊撃戦を仕掛け、あちこちで長州軍を破り、長州の心胆を寒からしめた。
香春方面にさらに迫ろうとする長州軍に対して、金辺峠のラインを島村志津摩は死守し続け、ついにそれ以上の長州の侵攻を防ぎ続けた。
広島や石見方面の幕府軍が完全に撤退し、その方面の長州の主力が小倉方面に集結し、長州の全軍が今度は小倉に襲いかかってくる局面となったが、島村志津摩率いる小倉藩は、数や装備にはるかに劣っているにもかかわらず、長州に対して決してひけをとらぬ戦いぶりを見せ、双方多くの犠牲を出したそうである。
小倉藩は多くの優秀な指揮官が相次いで戦死したそうだが、常に先陣に立って銃弾の雨霰の中を駆け抜けて采配をとる島村志津摩はなぜか生き延びたようだ。
島村志津摩は痢病にかかっており、しばしば具合の悪い中を押して、戦場に立ち続けたそうだ。
そののち、和議に入ったが、長州は四歳になる小倉藩の藩主を人質に出すよう再三要求、その条件を呑まなければ和平には応じないと強硬に主張したが、島村志津摩は粘り強い外交と、仮に和平が結ばれない場合は一藩をあげて逃散し、肥後に亡命する構えも見せたために、最終的に長州が折れて和議が結ばれたという。
その後、国土の多くを依然として長州に占領され、窮乏をきわめる小倉藩の家中をよくまとめ、戊辰戦争では官軍側について藩が滅びないように苦慮し、明治初年の不平士族の反乱には常に家中が応じないように押さえて、小倉藩の建て直しに勤めたという。
また、明治初年に、オランダ人の教師を雇い、育徳館という学校をつくり、次代を担う地域の人材を育てることに努めたそうだ。
ただ、廃藩置県の後は、小倉藩の多くの士族が困窮するのを見て、皆のためになればと炭鉱の開発と経営に乗り出すものの、島村志津摩自身がそうした商売に不向きな士族の商法そのものの人だったために、炭鉱経営に失敗し商会は破綻し、晩年はかなり生活に困窮しながら、田舎でひっそりと明治九年に四十四歳で亡くなったらしい。
島村志津摩は、当時家中や領民から絶大な人望があり、長州の軍勢を撃破して死守した金辺峠には、今も大きな碑文が立っているそうだ。
とはいえ、時代が移り変わるうちに、ほとんど忘れ去られていた島村志津摩を、この本を書いた白石さんという方は、三十年かけて調べ上げてこの本を書いたらしい。
郷土史の精華のような本だと思う。
すばらしいなあ。
本当、武士の鑑のような人物と思う。
男ならば、島村志津摩のようにありたいなあと、読んでて本当に思った。