現代語私訳『福翁百余話』第十七章 「科学について」

現代語私訳『福翁百余話』第十七章 「科学について」


ひそかに考えると、今の西洋文明の学問を文明として、日本や中国の古い学問と比較した時に、両者がお互いに異なっているところの要点を指摘するならば、ひとえに科学という基本に依拠しているか依拠していないかという違いがあるだけのことです。


宇宙や自然における真理・原則に基づき、物質の数量と形状と性質とを詳細に明らかにして、その作用を知り、結果としてその物質を用いて人間のために利用することを科学と言います。
ですので、科学という学問においては、何千年何万年昔から何千年何万年の未来に至るまで、あらゆる世界に普遍的に相通じるものであり、宇宙にも達するもので、変わることはありません。
ただ人間の智恵が進歩するにしたがって、昔からのまだ発見されていないものを発見し、そのことによって科学の対象範囲を広くするということがあるだけのことです。


ですが、物質的な世界における科学を離れて、精神的な世界における理論の領域に入るならば、その議論の対象はいつも同じではなく、時代とともに変化し、場所によって変化し、以前の誤りが今は正しいとされ、何かを得れば何かを失い、きちんと定めるということがありません。
たとえば、政治経済や道徳論のように、昔の時代の人においては思いやりある政治として仰ぎみられたものが、今の世では圧政として人々が嫌がるものとなったりします。
ある国では自由貿易を最高の経済における方法と認めており、別の国では産業を保護する法律によって国民の利益や国益を工夫します。
キリスト教の国の人は儒教や仏教の人々を何の徳もないと言い、儒教や仏教の人々はキリスト教の間違っているところを主張し続けています。


ただ世界全体においてそうであるだけでなく、ある国の一時的な部分を観察しても、前と後とで食い違っているものは非常に多いものです。
身近なところでも、政府が方針を新しくしたと言い、法律や規則を改革すると言い、改めてはまたやめて、時には前の年にすでに嫌がって改めたはずの昔の姿に戻ることさえないわけではありません。
結局、精神的な事柄における理論には一定のさだまった基準がないということの明らかな証拠であり、この事柄に関しては西洋の文明における議論も、日本や中国の昔の時代の学問の議論も、場合によってはどちらが正しいか間違っているか、あるいはどちらが利益があり損失があるかを断定することは簡単ではありません。
今の時代の西洋の学問を学ぶ人が『韓非子』を読んで喜んだり、太宰春台の『経済録』や中井竹山の『草茅危言』を読んで今でも学ぶべきところがあると主張するようなことは、その事例として見ることができます。
このことを喩えるならば、医療において、人間の内面の精神的なことがらの変化を診断するについては、西洋の医学も東洋古来の医学も、ほとんど似たものですが、仮にも医学の上の物質的な事柄への方法における到達点においては、西洋医学だけが明晰なもので、東洋古来の医学は何も見えないのと同じです。
医学の道はつまるところ外科から進歩するとは学識ある人の言葉であり、医学における物質的な事柄への方法論は、そのまま科学の範囲にも存在しているものです。


ですので、科学は自然の真理・原則に基づき、宇宙とともに永遠にあらゆる物事を網羅し、この上なく広く大きく、最も尊く重要なもので、人間がほんのひと時も離れることができないものです。
ただ工芸や産業の領域を支配するだけでなく、人間の文明や学問がだんだんと進歩して道理がだんだんと明らかになってくるのに従い、政治・経済など、今は精神的な事柄と呼ばれているものも、やがては科学の中に包摂して例外がないようになることでしょう。
その様子は、ちょうど、医学が日に日に進歩し、物質的な手段を活用し、その方法がどんどん発達して、やがては精神的な内面の病気も外科の部門によってコントロールするのと同じような道を辿ることを見る時もあることでしょう。


科学が広大で重要であることは今まで述べたようなものです。
日本にとって新しい西洋の文明が入ってくる道において幸運だったことは、まさにこの科学という門から始まったということです。
中国などは、日本よりも西洋との交流は長年に及んでいたにもかかわらず、西洋文明の新しい要素を取り入れたのは国民の中でも下層の商業に従事すする庶民の人々からであり、初めのうちは西洋文明が重視されず、今日に至ってもまだ文明の進歩が円滑でないことが気の毒なことですが、これは他国の不幸だとしてとりあえず置いておき、日本だけは、なぜ文明が入ってくることが大変気高い方法で行われたかその理由を簡単に述べましょう。


足利幕府の末期の頃に行われた外国との交流のことはしばらく置くとして、徳川幕府鎖国政策は、名実ともに本当の鎖国であり、外国の事情を知る方法がなく、長崎の通訳官であってもただ外国の言葉に通じているだけで、本を読むのはすべて禁止されており、享保年間(十八世紀前半)にはじめて本を読むのが許されたぐらいの様子でした。
日本中の知識人や学者の人々には西洋の書物を読む人など一人もいませんでした。
その時代において、不思議なことは、江戸に住んでいた中津奥平藩の医師の前野良沢という人物がおり、「蘭化」という号を称して、宝暦・明和の頃(西洋紀元一七六三、四年の頃)はじめてオランダ語の書物を読もうという志を起こして、その後、若狭酒井藩の医師・杉田玄白先生(鷧斎(いさい)という号も称していました)もまたオランダ語の書物を読みたいと志し、志を同じくする人が三、四名集まって相談し、オランダ語の書物を理解して実際に使ってみようということになり、前野蘭化(良沢)先生をリーダーとして、江戸の鉄砲洲の奥平藩の藩邸の中で、前野先生の家に集まり、『ターヘル・アナトミア』というタイトルのオランダで刊行された人体の解剖書を解読し始めたのは、明和八年三月五日(一七七一年)のことでした。


努力し勉強してだんだんとその意味を理解することができるようになるにつれ、杉田鷧斎(玄白)先生は翻訳に着手し、四年の間をかけて十一回草稿を推敲し、ついにできあがったのが『解体新書』でした。
(その事柄の一部始終は『蘭学事始』という本に詳細に書かれています。)
本当に日本の歴史が始まって以来の大事業であり、日本の後世のために西洋文明に入っていくための道を開いた先人たちの刻苦と忍耐は言うまでもなく、特に私が大切に思うことは、その西洋文明に入っていくための道を科学から始めてくれたという事柄にあります。


千数百年の間、日本や中国の古くからの医学の医者たちは、科学を知らずに陰陽五行という妄想の学説を守り、いまだかつて疑うこともなかったわけですが、彼らも『解体新書』が翻訳されたことにより一挙に急に迷いを破られたわけです。
ですので、当時の医学に従事する人々で少しでも気概がある人々においては、西洋の事実に基づいた学風に靡かないものはなく、それからは蘭学というオランダの学問を学ぶ学問の流れが確立され、幕府の末期に至るまでおよそ百年の間に次々と偉大な学者が輩出しました。
その主な学者は、大槻、宇田川、坪井、箕作、第二代・第三代の杉田、伊藤、川本、戸塚、林などのさまざまな先生方で、江戸に塾を開いておりました。
また、京都には、新宮、小森などの先生方がおり、大阪には緒方洪庵先生の適塾がありました。
医者を仕事とする人もいれば、読書や翻訳に努める人もおり、決して少なくはない本が出版されました。
それらの本はどれも、医学書でない場合は物理、化学、博物学などの本であり、ただ医学に役に立つだけでなく、その勢いは広く上流の知識人や学者の人々にも波及し、一般的にオランダの科学の学説であれば、昔からの老いた儒教の学者たちであっても、簡単には抵抗できませんでした。
ただ、オランダの学問を学ぶ蘭学者の人々は人数が少なかったため、表面的には一般的な社会において排斥されていたようではありましたが、実際はもうすでに日本の上流の有力部分を征服したものと言える状態でした。
なぜかと言うと、世の中には頑固な保守派の人物が多いものではありますが、仮にもその人にすぐれた知識や判断力があるならば、真理や原則が間違いないことに気付いてすぐに科学の良い友となり、一度この科学の門から西洋文明に入るならば、その志は二度と動揺しないからです。
日本における西洋文明の導入の基礎が堅固であり、その道のりが気高いものだったのは、現実に事実として疑いの余地のないものです。
もし徳川幕府の時代に西洋の文明を入れようとして、その方法を科学には求めず、かえって政治についての議論やビジネスや経済についての議論など、人間の精神的な事柄の理論によって、そうした本を翻訳しその学説を主張し、あるいは下層の貧しい人々が国内や国外での西洋文明との付き合いから西洋の新しい物事を輸入することから始まっていたならば、初めから西洋文明を軽蔑して顧みることがなかったでしょうから、昔からの理論と新しい理論とがお互いに激突して重大な事態となり、西洋文明を学ぶ学問のきっと断絶していたであろうことは疑いありません。
しかし、実際はそれに反して、初めは医学から始まり、だんだと科学の領域に発達し、いたるところに敵を見ず、かえって有力な友を得ていったことそ、幸運なことだったことでしょう。
前野良沢杉田玄白らの先人たちが、偶然そう思い立ったことから始まったことではありますが、これは科学の恩恵と言わざるを得ないものです。


今まで述べたように、日本の西洋文明の導入は科学の門からは事理、明和(十八世紀後半)から徳川幕府の末期に至るまで、およそ百年の間、科学に関する著作や翻訳書は決して少ないものではありませんでした。
しかし、鎖国政策の政治のもとでは、外国人に接することができないのはもちろん、外国の著作を得ることさえ簡単ではなく、そのため日本の学問や技術のレベルは高い水準に達することができず、それは私が自分の身に照らしてもそのおおまかな様子を知っている事実があるので、その一つの事例を示したいと思います。
弘化・嘉永の頃(十九世紀中葉)、オランダの学問を学ぶ塾の中でも最も盛んだったのは大阪にある緒方洪庵先生の適塾であり、私もその塾に学んだ者でしたが、当時塾が使用していたオランダ語の原書は医学に属するものが多く、科学に関連する本は『教科書』(School boek)や『自然科学入門』(Volks Natuurkunde)などという、オランダにおいては小学中学などで用いる読み物だったことでしょうが、適塾の中ではただそのオランダ語の原書が一冊だけあるのを、学生は順番に書き写して、お互いに読み合ったり集まって読んだりしてその意味を研究したものでした。
そんな頃、今を去ること四十数年前、安政三、四年の頃(一八五六、七年)、私・諭吉が二十三、四歳の頃のことだったと記憶します。
ある時、筑前福岡藩の黒田長博侯が大阪に立ち寄った時に、黒田候は以前から緒方洪庵先生をひいきにしていたので、緒方先生は黒田候が大阪に立ち寄ったと聞いて大阪の中之島にある筑前黒田潘の藩邸にお伺いしました。
その時、黒田候が長崎で新たに購入したというオランダ語の原書一冊を一時的にお借りして帰宅し、急いで私・諭吉(当時、私・諭吉は適塾の塾長をしていました)を呼んで事情を告げました。
見てみると、オランダで最近出版されたピーテル・ファン・デル・ブルグという人が書いた科学に関する書物で、本の中の文字を読む時間の余裕はありませんでしたが、ただその中の図版を一目見ても驚愕するものでした。
緒方先生が言うには、黒田候は金八十両で購入したものだとのことです。
十両とは非常な大金であり、たとえ他に同じ本が売ってあっても学者や学生が買おうとすることは到底できないものです。
ですので、先生に頼んで、この本を黒田候が三日間大阪に滞在する間、適塾にお借りして置いておいてもらうように交渉し、すぐに適塾の仲間たちと相談し、本当に珍しい本で珍しいものだが、空しく見たり読んだりすることをお互いに許さず、ただ借りていられる間の時間が許す限りこれを書き写そうということになって、それぞれ各自筆と墨と紙を用意し、即刻写本づくりに取り掛かり、一人が疲れれば別の者が交代し、その者の後にはさらに別の人間が現れて、二昼三夜、およそ六十時間、一分も休みなく、文字も図版も見事に写し終って校正までなんとか終えることができたのが、その本の中の「エレキトル」(電気)の部分でした。
黒田候が出発する時間が来たので、借りていたものはもちろん返却せざるを得ず、数多くの貧しい学生たちはあたかも父母に離れる思いをしながらそのオランダ語の原書に別れを告げました。
その後で、写本を熟読してみると、珍しいことは数え上げて言うこともできないものでした。
今までの科学の本を読んで私たちが知っていたことは、ただ以下のことでした。
つまり、ガラスの板の摩擦によって起こるものを「エレキトル」(電気)と呼び、金属と酸類によって生じるものを「ガルハニ」(電流)と呼んでおり、その二つは似ているけれども違っているようである。
その「ガルハニ」(電流)を起こす方法は、銅銭と銅銭とを重ねて、その銭の間に毛織物の切れを挟み、何枚も重ねて円筒形を灰吹き用の竹筒のようにつくりあげ、毛織物の切れを漬物のための酢かあるいは希硫酸などで浸せば、たちまち一種の「エレキトル」(電流)を生じて、プラス極とマイナス極の働きを見ることができる、
これを「ヴヲルタセコロム」(ボルタ電池)と呼ぶ、などということに過ぎませんでした。


しかし、今度の新しい珍しい本には、イギリスの電気学の始祖とも言うべきファラデーの新しい学説が翻訳されてあり、私たちが今まで珍しいものだと信じてきた「ヴヲルタセコロム」(ボルタ電池)などは跡形もなく吹っ飛び、ファラデーにおける電気発生の方式が図版に示してあり説明されている、その新しく珍しい姿に、ただ適塾の学生たちは茫然とし心酔するばかりでした。
六十数個の元素を配列して、プラス極とマイナス極の順番が定められているようなことは想像もしなかったことであり、その時おかしな話がありました。
読み始めて直後、まだ説明文をしっかり熟読していないうちに、元素配列の上位に「コール」(炭素)とあるのを見て、ある者が「コールは炭だ、炭と電気と何の関係があるんだ、ガルハニ(電流)は金属から起こるものだ、これはおかしなことだ」と言いだし、「ならばまずは辞書を見てみろ、コール何か変わった註はないか」と辞書を調べてみたのですが、炭のほかには別の意味もありません。
それから、だんだんと説明文を熟読して、電気の発生のために用いる亜鉛はかくかくしかじか、炭素はかくかくしかじか、と理解することができ、最初疑問に思ったことで笑ったことがありました。


要するに、ファラデーの電気についての学説は、緒方洪庵先生の適塾を大きく揺り動かしたものであり、かつては科学の本を読んでもただ熱エネルギーについての議論を勉強するばかりで他の考えはなかったのが、急に様子が変わって電気エネルギーばかりに興味を持つようになりました。
その本を翻訳して故郷の友人に贈る人もいましたし、適塾の中でありあわせの徳利やどんぶりや亜鉛、木炭などを集めて発電を試み、道理はわかっているのだけれど現実は思う通りにいかないと空しく道具が不足していることにため息をつくものもいました。
到底、実際に実験することはできなかったわけですが、電気の理論だけは写本が教えるとおりに完全に理解したわけで、当時の日本全国において電気の新しい学説を知っているのはただ大阪の緒方洪庵先生の適塾だけだと、遠くはるかな江戸や長崎などの同じ蘭学を学んでいる人々を眼下に見るような思いまでなかったわけでもありません。
これまた、若い学生が血気に流行って愉快になっていたこということでしょう。


以上のことは、電気学に関する昔の物語であり、今日の現実には何も役に立たないことですが、当時の蘭学者がどんなに科学に関して熱心だったかということの事実は想像して知ることができることでしょう。
私が恩師として仰いだ故・緒方洪庵先生に学んだ学生たちが科学を重視したことは言うまでもなく、それ以前にさかのぼっても、この道の開祖である前野良沢杉田玄白の両先生から始まって百数十年の間、日本国中に科学についての考え方や思いが養われてきて、少しも知識人や学者が真理や原則から逸脱しないようにさせてきたのは、ひとえに先人たちの賜物のおかげです。
今や日本には、単に学問だけでなく、政治も法律も、ビジネスも工業も、数限りない物事が錯綜し、それに対処するための方法もまた大変錯綜しています。
しかし、しばらく目をつぶって、心を遠く自由に馳せて、人間のあらゆる物事を行うための根本はどこにあるかと自問するならば、自然の真理・原則にあるという答えが出ます。
そして、科学はこの真理・原則を教えてくれるものです。
人間のあらゆるものごとを網羅する学問です。
ですので、後の時代の学生たちは、それぞれ科学を志すところがあるべきです。
場合によっては、政治や法律、場合によってはビジネスや工業、海や山や川や森に、その志すところの専門を修めることになるでしょうが、その専門の学問の根本となる科学・科学的思考を学び究めることは、決して忘れるべきではありません。
くれぐれも勧め忠告したいと思います。