現代語私訳『福翁百余話』第十五章 「幸福や不幸を生み出すエンジン」

現代語私訳『福翁百余話』第十五章 「幸福や不幸を生み出すエンジン」




ほんの少し顔の表情をしかめたり笑ったりすることが、人の心を動かし、場合によっては社会の幸福や不幸の原因となることがあります。


ある老女性の一言を聴いてその村の家を焼かなかったということや、ある村人の悪だくみに怒って多くの人々を虐殺したというようなことは、しばしば戦記物の講談において聴くことです。
また、中国の春秋戦国時代の宰相・范睢(はんしょ、魏の国の縦横家)が、出世した後、一度でも食事を恵んでくれた人にはその恩義に必ず報い、かつて自分にガンを飛ばしてにらみつけた人への恨みにも必ず報復したというような事例も、すべて原因は小さくても大きな結果を生じる(因小果大)という事実を示しているものでしょう。


今、私自身に関することでも、それとよく似たおかしな話があるので、その様子を御話したいと思います。
私は、もともとはかつての中津藩の貧しい士族で、生まれつき中津藩の藩の気風が窮屈であることが不満で、藩士の家に生まれたのにかえって自分で藩士である身の境遇を嫌がり、若い時から西洋の学問を志し、長崎や大阪におもむいて勉強し、そののちに江戸にやって来た時は二十五才の年齢の時でした。
それ以来、アメリカに行き、またヨーロッパにも行き、学問もだんだんと進歩するのと同時に、親しく欧米諸国の文明の生き生きとした様子に接して憧れ慕う気持ちを抑えきれず、中でも特に欧米諸国が人権を重んじているという事柄は、封建制度において門閥が幅を利かせる空気の中で呼吸してきた日本人には夢にも想像できなかったことがらであり、目の前にその様子を見ると、ただ茫然とし、心酔するばかりでした。
(フランスに滞在していた時、パリで本を買うと、その本やの主人はその当時の国務大臣の誰それの実の弟だと聞きました。
それは、日本で言えば、江戸の本屋の須原屋茂兵衛が御老中の何とかの守(かみ)様の弟であるようなもので、なんともはや不思議なこともあるものだと、一緒に旅している人々に語り、みんなで驚き感動したことがありました。)


帰国してから、元の生活に戻って、本を読んだり、あるいは著作や翻訳のことに忙しく生活するようになってからも、社会全体のために成し遂げようと決心するところは、身分制度門閥を打破するということ一つであり、学問の友たちと笑いながら話す間にも私がそのことを言うのを聴かないことはなかったものでした。
大名殿様といえば、暗愚で虚弱なわがまま者の異名であり、潘の家老といえば老いさらばえた頭が悪く鈍い人々を意味し、徳川家の将軍を筆頭にしたいわゆる旗本八万騎は、八万の空威張りの実際には弱い侍ばかりだと、馬鹿にして笑い、嫌っておりました。
ですが、知識人や学者の人々に置いては、多少の思慮分別がありはするものの、冒険して自分から何かの物事を成す勇気や度胸はなく、ただひそかに危険なことを議論して、いわば自分は手を出さすに間接的に変革のための騒動をそそのかしている様子でした。
そのうちに、明治維新の世の中となって、維新のはじまりとともに、身分や門閥の制度を廃止が始められらことこそ、千年に一度しか出会えないような本当にうれしい出来事だったことでしょう。


当時の西洋の学問をしている知識人や学者の人々の心の中を表現するならば、あたかも自分が描いた筋書どおりに芝居が演じられて、その芝居を見物しているのと違うところがありませんでした。
もちろん、役者と台本の作者の間には、直接は打ち合わせもなかったので、双方ともにもどかしい思いはあったことでしょうが、大体の筋においては不満なところを見たことはありませんでした。


かくして、明治新政府は、門閥身分制度の廃止という考えに基づき、太政官を設置して、摂政関白などの旧制度を廃止したのですが、三百もいる大名は依然として昔のように存在していました。
この時において、阿波徳島藩のある友人(はっきりとは覚えていないのですが高畠五郎だったと思います)が私に告げて、「あなたは試しに私の藩の藩主に面会してみるつもりはないか」と言いました。
私はそれに答えて、「僕は今まで自分の藩の中にいてさえ藩主へはたった一回か二回恒例として御目見えをしただけであり、親しく会話したこともありません。だいたい、僕は生まれつき大名が嫌いで、誰にもほとんど面会したことがないのですが、今あなたが言う阿波藩の藩主は大きな藩の藩主ですし、しかも徳川将軍の孫ではないですか。どんな人間なのでしょう。これは見てみたら面白い。」ということで、ともかく紹介を頼み、その後、ある日に約束して、当時の阿波藩の藩邸があった一橋に参上したのが、たしか明治元年か明治年の頃のことでした。
玄関において取次ぎを申し込、広い座敷を通って、はじめて面会したのは阿波藩の殿様で、年齢は二十歳ぐらいの貴公子でした。
もちろん、若者のことであり、とりとめもない話だけで特になんという話はありませんでしたが、私は話している間の最初から最後まで、その殿様の言葉や動きに目をそそぎ、うまく誘導していろんなことを話させると、よく見れば見るほどいかにも無礼で偉そうな若者で、いまだかつて他の人と付き合うための方法も知らず、学生同士の付き合いであれば一言馬鹿と評価して去る以外ありませんでした。
また、左右に付き添う家臣の人々が、その殿様に仕えて、膝立ちして移動し、平伏するその姿も見るに耐えないものでした。
私は心の中では冷笑しながら、丁寧にあいさつして別れを告げ、家に帰ってからひとりで考えをめぐらし、「天下の大名のその無様な様子は、ただ阿波藩の若殿様だけに限らず、すべての殿様は三百年の間の遺伝や悪い習慣に養われて腐り果てているものであり、これらの人々を日本全国の各地方に君臨させるのは、豚や犬の命令に人類が従わせられていることと同じだ。徳川の中央政府もすでに滅びた。この勢いに乗って本当の文明を日本に入れようとするためには、私たち西洋の学問をしてきた者たちの持論である門閥身分制度の打破という考えを拡大して、徳川と一緒に他のすべての藩も滅ぼして、大名や家老たちの権力を根底から奪い去るべきだ。」云々と、ちょうど持論の矛先をさらに新しくして、そのことを志を同じくする友人たちや知人たちに語ったところ、一人としてできないと言う人はいませんでした。
このことを議論したり説いたりし、あちこちでコミュニケーションをとって、いよいよ話の盛り上がる時には、その議論の中に、あの若殿の無礼で偉そうな様子の実際の体験談を事例として引用すると、毎回それを聞いた人々の心が憤激していたことは、今も記憶にあります。
その後、数年も経たないうちに、政府の大胆な政策によって廃藩置県の大事を断行し、かえって知識人や学者たちが意外に思って驚かされ、さらには一言も文句のつけようがなかったことこそ、昔から今までの歴史における最も偉大な出来事だったことでしょう。
当時、私たちの西洋の学問をしている仲間は、何人か集まればお互いにお祝いし合い、新政府が行ったこの偉大な出来事を見た以上は、死んでも悔いはないと絶叫したものです。


さて、三十年後の今となって、よくよく過ぎ去った当時の出来事を回想するならば、私たちが執念を持って守ってきた思想がどのようなものであったかはしばし置くとして、その振る舞いがともすれば感情に支配されて極端に走っていたことは、今更ながら恥ずかしいものであることでしょう。
私が阿波藩の藩主にはじめて面会してその無礼を怒り、「くちばしの黄色いひよっこで、頭も悪く傲慢で、全く何かの物事を任せることもできない存在だ。こうした種類の三百もいる大名を一掃すべきだ。」と、ひそかに知人たちの間で力説し議論したそのひよっこも、「三年も経てば三歳児になる」ということわざのとおり、次第に成長していったところ、まんざら頭が悪いわけでもなく、公使となったり貴族院の議長に選ばれたり、また国務大臣にも任命されて、立派に一人前の人物となったそうです。
かつて私が言っていたことは、あまりにも行きすぎだったということを理解すべきです。
ですので、当時私が熱心に論じた、大名を一掃すべきだという議論によって、廃藩置県の時期においてそのために一万分の一ぐらいは力があったともし仮定するならば、その議論は私のかねてからの志だったことは間違いないことですが、偶然阿波藩の藩主の無礼で偉そうな態度に促されてさらに新たなはずみがついたものでもありました。
ですので、おおげさにおかしな表現で言うならば、廃藩置県が成功した理由の一部分は、阿波藩のある若者のおかげだと言うこともできないわけではありません。
おかしなことでなくてなんでしょうか。
ただ、このことは社会の利益に関係したものであるからこそ、幸いなことですが、もしもこれが反対に何かの災いの源となったことであったならば、当時の阿波藩の藩主もまたこれに接した私・福沢諭吉も、今日いま、道徳や正義の上において申し訳ないことだったことでしょう。
人間がわずかに顔をしかめたり笑ったりすることを、軽々しく不注意に扱うべきではありません。