現代語私訳『福翁百話』 第七十七章 「子や孫の健康を続かせるにはどうすればいいでしょうか」

現代語私訳『福翁百話』 第七十七章 「子や孫の健康を続かせるにはどうすればいいでしょうか」



新たに自分の身を立て、会社や家を興すような人は、きっと精神も身体も丈夫で強い人であり、苦労して努力し、あらゆる困難を乗り越えてついに志を成し遂げた人でしょうから、たとえ金持ちや高い地位になったとしても、昔の日々を忘れずに生計を営むだけでなく、その身体の摂生についても若い時を思い出して怠らないことでしょう。
ですので、年をとってもなお健康な人が多いものです。
しかし、二代目の子どもたちはそうではありません。
金持ちや高い地位の家に生れて、贅沢な衣食に恵まれ、家計がどうやって稼いでいるのかも知らずに消費ばかりし、たとえ法律に違反したことまではしないとしても、上流社会特有の習慣に染まって、いわゆるお坊ちゃんお嬢ちゃん育ちであることを免れません。
人との交際やその他すべてにかかる費用も多く、しばしば親を驚かせることがあったとしても、金持ちの家計にとっては何ということはないので、それもいいしこれも問題ない、と親子の間で大目に見過ごすうちに、最も悲しむべきこと、つまりお坊ちゃんお嬢ちゃんの身体の健康が失われるということが起こります。


家にいて使用人を便利に呼ぶことができるので、自分で働くこともなく、夜に眠ろうとすれば寝室の用意はすでに整っていて、自分はただ横になるだけ。
日が昇ってだいぶ経ってから遅い時間に、やっと起きて洗面すると、その間に、部屋の掃除は自然にできていて、座ればミルクや卵が運ばれ、お茶にコーヒー、パンにバター、御飯にスープにコールド・ミート、お腹を満足させることは思うがままで、思い通りにならないことはありません。


朝の食事が終われば、車に乗って学校に行くか、自宅に家庭教師を招いて読書や裁縫などのお稽古に半日がかかり、昼の料理、夜の御馳走、魚も肉も野菜もお菓子も、希望に応じて運ばれてくるだけでなく、好みに合わなければさらに命じて他のものに変え、好みにも飽きて、年長者にそのわがままを咎められれば、黙ってわざと食べなくなり剛情を張ったり、あるいは陰に日向に反発するだけです。


年齢がだんだんと成長するしたがって、運動もますますしなくなり、それとともに食べ物への欲は逆に増長して、男の子は酒に酔いタバコを吸い過ぎて頭痛を訴え、女の子は甘いものを食べすぎて胃の痛みに苦しみ、筋肉は弛緩して肌のつやも失い、顔色は悪くて赤ではなく黒に、白ではなく青になって、日ごろから栄養のあるものを食べている割には貧血になりがちだと言います。


急に、身体の運動が必要だと聴いて、寒さや暑さを避けて天気が良い時に自宅の庭園を散歩し、さらに奮起して十二キロ、あるいは十六キロぐらいを歩けば、翌日には疲労して、病気の人となんら変わりません。


もしくは、健康を誇る若者の仲間たちの場合は、水泳やボート、遠足などの活発な趣味もないわけではありませんが、飽きるのも簡単で、たいていどれも長続きせず、興味のままに熱中する時は、運動を口実にして暴飲暴食、かえって胃腸の具合を悪くして、損得を計算するならば空しいものも多いものです。


要するに、今の金持ちや地位の高い家の子どもは、暖かい衣服を着、飽きるほど十分に食べることができる贅沢な暮らしをし、何もせずにぼんやり暮しているために身体を悪くし、餓え死にではなく飽き死にしていると言えます。
このような体質の男女が子どもを生めば、その子のひ弱さは両親以上に倍にひどいものとなり、家庭の雰囲気は上流の名家で、ますます暖かい衣服や飽きるほどの食事や何もしないでいる便利さが増すとともに、その家の人の体質はますます半死半生、苦しい状況に沈んでいき、四代も五代も後にはその家族には生き残っている者がいなくなる状態になるのも疑いありません。
ただ気の毒なだけです。


ですので、この世の中の多少の金持ちは、その財産をずっと長続きさせるための手段を工夫するのに忙しい様子で、それはもっともなことですが、そもそもずっと長続きするというのは、家族に伝えるためという意味でしょう。
そうであるのに、その子孫の健康が衰弱して、ついに家族が絶えることになれば、たとえずっと長続きする方法を工夫することができたとしても、これを継ぐ者は全くの他人になります。
なんだかさびしいものではないでしょうか。


ですので、私はもちろん財産がずっと続くための方法を工夫することを非難するわけではありませんが、その工夫とともに、子や孫の健康をずっと長続きさせ、人とお金と両方ともずっと長続きする方法を工夫することこそ、資産を持っている人の本意であるはずと、あえて子や孫が本当の意味でずっと長く続くための工夫をアドヴァイスしているわけです。