どの時代も、それぞれにいろんな人々が、自分の時代の課題に取り組んできたのだろう。
その中で、本当に後世に光となった人とは、きちんとした根拠に基づき、理性や礼節や穏健さを常に心がけ、粘り強く取り組んだ人々ではなかろうか。
浅い自己満足の憤激や排他心や妄想は、害こそあれ、光とはなるまい。
今の日本には、残念ながら、きちんとした根拠や理性に基づかず、妄想や党派の激情にかられた人々が一部とはいえ多く存在している。
その中の顕著な事例は、同じ政党でありながら、執拗な菅降ろしを繰り返した小沢派であろう。
小沢さん本人ははっきりと自分のHPで日米FTAの推進などを書いているのに、なぜかその支持者には反米主義者が多い。
小沢裁判がアメリカの陰謀というのは、二重の意味で妄想だと思う。
アメリカがそこまで介入する必要も暇もあるとは思えないし、そもそも小沢さん自身は反米ではないし。
だいたい、アメリカが一国の世論や司法までそこまで介入して操れるならば、小沢さんをターゲットにするよりも、もっと世界中にいる物騒な反米主義者は今頃倒されていることだろう。
そんなに簡単に他国の世論や司法や政治は、恣意的に操れるものではない。
善悪二元論で、何か巨大な悪がうごめいていて、それと自分は闘っているという感覚を持ちたがるという点では、ネトウヨと小沢派は、仮想敵が違うだけで、同じなのかもしれない。
世の中は、善悪二元論では語れないし、それほど悪意ばかりでもなく、善意ばかりでもない。
小沢さんは、菅降ろしには閉口したが、それほど憎むべき人とも思えない。
が、慕うべき人とも思えない。
いつも漠然としたことしか言っておらず、いまいち詳しい政策がわからない。
小沢さんや亀井さんは、古い1940年体制の感覚を未だに引きずっているだけの、古い人というだけではないかと思う。
その古さが、ある種、社会党崩れの古い中高年に共感を起こしているのかもしれない。
要は、1940年体制へのノスタルジーだろう。
国民国家が手厚い平等のための分配を行うべきだし、行うことができるという感覚と思考が、時代の変化を加味せずに彼らには存在しているのだと思う。
剥き出しのネオリベも困ったものだが、1940年体制のノスタルジーでは何も解決できないということが彼らにはわかっていないのだろう。
グローバル経済と情報技術の革新が進み、冷戦も終わって久しい今は、1940年体制は無理だし有害無益だということを、今もって彼らはわかっていないのだろう。
小沢・亀井派は、今は不景気なので増税の時期ではないと言う。
その是非は置くとして、かつて彼らは同じことを小渕政権の時に言っていた。
小沢・亀井両氏は、小渕政権の中心人物だった。
膨大な国債があの時に発行され、そのツケで今の日本は苦しんでいる。
あの頃のことを、小沢派の人々は覚えているのだろうか。
全く健忘症で忘れているようである。
小渕・森政権の時に、膨大な財政赤字が膨れ上がった。
にもかかわらず、本当の意味での景気回復は起こらず、不良債権の処理も進まなかった。
あの頃のツケでその後の日本はずっと苦しんでいる。
小沢・亀井派の人々は、小泉・菅にのみ悪罵を極め、彼らが参加していた小渕・森政権は忘れ果てているようだ。
小沢派のセンスの無さは、小泉政権と菅政権の性格の違いすら全く理解できていなかったことだろう。
この二つの政権は全く性格も政策も違う。
菅政権は、明らかに格差是正や社会的包摂への志向を持っていた。
だが、そうした違いを、「対米従属」「隷米」などという単なるレッテル貼りで小沢派は捨象した。
菅さんは、考えてみれば、代表選でも小沢さんを正々堂々と破ったし、その後の悪辣な小沢派の菅降ろしの策動にも長い間耐え続け、不信任案も否決させ、自分の後継でも小沢派を撃破した。小沢さんの辣腕神話を事実上終焉させたのは、菅さんだったのだと思う。逆に言えば、小沢派の自滅だったのだと思う。
菅降ろしまでは、小沢さんはもうちょっとマシな人物と思っていたが、あれで愛想も尽き果てた。
本当ならば、小渕政権の頃の自自公連立などで気づくべきだったのかもしれない。
すでに政治的にも倫理的にも敗残者ではないか。
だが、そうだからこそ、裁判については公正に行われるべきだろう。
小沢さんを政治的に抹殺するために司法が恣意的に動くようなことがあってはならないし、また小沢さんを政治的に抹殺するために不可解な司法のありかたをろくにチェックせずに見過ごしたり、あるいは支持するようなことがあってはなるまい。
いかに小沢派にはうんざりし、閉口していようと、私情は捨てて、法的手続きについて、心ある国民はきちんと注視すべきだ。
小沢裁判についてはさまざまな疑問な点があり、公正な裁判が行われるように多くの人が注視すべきと思う。
しかし、また小沢派が妙な策動を起こして、菅さんの時のように野田政権の攪乱分子となるならば困ったものだと思う。
小沢派は政治的な策動や妄想はやめて、法廷闘争に専念して欲しい。
今の日本は、ひとつの曲がり角なのかもしれない。
その曲がり角で、どのような日本を目指していくかというのは、非常に大事なことである。
エネルギー政策の転換や産業構造の転換をきちんと進めていくかどうかということも、大事なひとつの曲がり角だし、司法のありかたの問題として、小沢裁判もひとつの大事な選択の一つかもしれない。
小沢派の余計な策動や空疎な主張は消えるべきだが、それは疑義のある裁判によってではなく、政治における正当な議論や選挙によってであるべきである。
おそらく、ろくなまともな政策も持たず、いたずらに菅降ろしに走ったような無内容な一年生議員らは、次の選挙で落選するのではないか。
国民はそんなに甘くはないし、愚かでもない。
そうであれば、裁判はそれ自体として、政治とは分離して、公正になされてしかるべきことだろう。