生きている間に最も願うべきこと

箴言の三十章には、ヤケの子アグルの言葉というのが少し載っていて、他のソロモンの言葉だとされている大半の部分と若干趣きが異なる。


その中に、祈りの部分がある。


これはとても良い祈りの言葉なのではないかと私は思う。


“Two things I ask of you, Lord;
do not refuse me before I die:
Keep falsehood and lies far from me;
give me neither poverty nor riches,
but give me only my daily bread.
Otherwise, I may have too much and disown you
and say, ‘Who is the Lord?’
Or I may become poor and steal,
and so dishonor the name of my God.”
(Proverbs 30.7-9)


「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」
箴言 第三十章 第七〜九節 口語訳)



「二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を
わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンで
わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り
主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません。」
箴言 第三十章 第七〜九節 新共同訳)


シェタイム・シャアルティ・メイタフ・アル・ティムナー・ミメーニ・ベテレム・アムート
シャヴ・ウデヴァル・カザヴ・ハルヘック・ミメーニ・レーシュ・ヴァオシェル・アル・ティテン・リー・ハトゥリフェーニ・レヘム・フキー
ペン・エスバー・ヴェヒハシュティー・ヴェアマルティ・ミー・アドナイ・ウフェン・イヴァレッシュ・ヴェガナヴティ・ヴェタファスティ・シェム・エロハイ


生きている間、真実の言葉に常に触れることができますように、また、ほどほどの暮らしで食べることには事欠かないようにしてください、ということを願っている祈りの文章である。


金持ち過ぎることもなく、貧しすぎることもないように、というところが、奥の深い祈りだと思う。
金持ち過ぎるとおごりたかぶって神への畏れを忘れてしまう。
一方、貧乏すぎると道を踏み外しかねない。
これは、大勢の人間の人生をよくよく観察した上での、深い人間への洞察だと思う。


そういえば、はっきりとしたあらすじを覚えていないのだけれど、昔、こんな童話を聞いたことがある。


あるところに、正直な人がいて、何か良いことをしたから、なんでも願いをかなえてあげようと精霊に言われた。


精霊は、金でも名誉でも権力でも美女でも、なんでも与えよう、と言った。
しかし、その人は、ほどほどの暮らしで困ることなく一生過ごせて、妻と仲良く長生きし、子どもも長く健康に無事に生きることができますように、と願った。


すると、精霊は、他のものならなんでもやる、と言った。
しかし、その人は頑としてこの願い事をした。
他の愚かな人間と違ってなんとすごい願いごとをするのか、お前が人間では一番賢い、しかもたいそうな願い事をした、かなえるのは難しいが、約束した以上はかなえてあげよう、と精霊は言った。


とかなんとかいう御話だったと思う。


ヘロドトスの歴史にも、賢人ソロンとリュディアのクロイソス王との間に印象深い話が載っている。
クロイソス王が、諸国を旅してまわっているソロンがやって来た時に、世界で最も幸せなのは誰か?と尋ねた。
ソロンは、長生きし、これといった問題もなく、子どもも皆自分が死ぬ前に死ぬこともなく無事に育ったという、別に有名でもなんでもないある庶民の名をあげた。
では、二番めは誰か?と尋ねると、また似たような人をあげた。
なぜ自分の名前をあげないのか、とクロイソスが怒って言うと、ソロンは、王はたしかに現時点ではお幸せだが、まだ亡くなっていないので何が起こるかわからない、と答えた。
立腹したクロイソスはソロンを追いはらうが、その後、クロイソスは、息子が不慮の事故で亡くなった上に、ペルシア帝国のキュロスに敗れて国を失う。


人がこの世を大過なく生き抜くのは、実に難しいことなのだろう。
ほどほどの暮らしで、食うに困らずにいれば、それが最も幸せなことなのかもしれない。


また、この箴言の奥深いところは、偽りとの言葉から遠ざかって生きることができるように、真実の言葉に触れて生きることができるように願っているところだと思う。


金持ちすぎると、しばしばおごりたかぶったり、おごりたかぶりまでいかなくても、あんまり人生の悩みや苦労がないので、道を求める心も起らず、真実の言葉に触れないままに人生を終ってしまうかもしれない。


一方、あまりに貧しいと、食うために働き続けたり、あるいは全く心の余裕のない状態になってしまうので、あまり道を求めたり、真実の言葉に触れることもできないままに終わってしまうかもしれない。


個人の人生もまたそうであるように、一つの社会の中の階層も似たようなものかもしれない。
働かずにラクに生きていける富裕層や上流階級というのは、しばしば酔生夢死で、たいした貢献もこの社会にせずにいる場合がある。
また、貧困層というのは、生きるだけで精いっぱいで、とても学術や公共の利益に尽くす余裕もない。
中間層の人間こそが、しばしばその国の勤労や創意工夫や学術の最高の人材を輩出するものだと思う。


とかく、私のような煩悩具足の凡夫は、ありあまるほどの富があればなぁと思ったりするものだが、それは本当は愚かしい願いなのだろう。
真実の言葉に触れ続けて生きること、そして、金持ち過ぎも貧しすぎもせず、ほどほどにきちんと生きていける程度の糧を得ることができるように願い生きていくこと。
それが人間にとって、最も大切なことなのだろう。


日々の糧と、真実の言葉。
この二つがあれば、人は生きていけるし、そこからそれないことが大事なのだろう。


それにしても、世の中にはなんと、むなしい偽りの言葉が氾濫していることだろう。
この中から真実の言葉と縁を結ぶのは実に難しい。


幸いに真実の言葉と縁を結ぶことができた人は、そこからそれないことをこそ、生涯を貫いて何よりも願うべきなのだろう。