今日は

I先生から、こんな話を今日聞いて、とても感銘深かった。


旧約聖書においては、南のユダの土地より、北のサマリヤの方が肥沃な土地で豊かだった、ユダ王国の土地のあたりは基本的に痩せていて貧しかった、という話を聴いて、考えさせられた。
そう考えると、豊かで恵まれていると、かえってなかなか神に近づけないというのはやっぱり真実なのかなぁと思う。
箴言の三十章におけるアグルの言葉に、貧しくもせず金持ちにもせず、ということを祈る箇所がある。
金持ち過ぎると傲慢になって神を求めなくなるから、と。
金がもっとあればどれだけ良かろうかと思うけれど、あったらそうなりやすいのかもしれない。


また、内村鑑三の弟子で、無教会主義キリスト者だった黒崎幸吉という人は、ヒトラーの『わが闘争』の翻訳が日本で出てすぐの1940年頃に、ヒトラーをはっきりと批判し、ヒトラーの軍事的勝利はやがて破滅する時の葬式の鐘の音だと言ったそうだ。
すごいなぁと甚だ感嘆。
それぐらいの勇気と智慧にあやかりたいものである。
もっとも、当時は黒崎は発行していた雑誌が廃刊に追い込まれたり、非常に苦労したそうである。
そうした中で節を屈しなかった黒崎や、黒崎を支えた矢内原忠雄は本当に偉い人だったんだなぁとあらためて感心。


あと、サウルとダビデのどちらが偉かったか、という話をされて、興味深かった。
サウルの方が立派な人で、あまり悪いこともしていないけれど、サウルは自分が罪人と知らなかった。
ダビデは多くの罪を犯したが、自分を罪人と知り、低く悔い改めた心を持っていた。
だから神はダビデを選んだ。という話を聞いて、なるほどーっと深く感動した。
ちなみに、塩野七生は、カエサルとネロについて似たような比較をしているそうで、ネロはもともとは素直で良い人だったが自分を罪人とは思っていなかった、一方、カエサルはいろいろやんちゃなことや派手な異性との関係もあったが自分は悪人で罪人という自覚があった、そこが両者の違いだった、ということを言っているそうで、興味深い話と思った。


そういえば、かつての日本の戦後の指導者は、それなりに、ある程度は自分たちの限界や罪深さへの意識はあったような気がする。
それがどうも、今の指導者にはないような気がする。
傲慢や自分の罪を自覚しない高ぶりこそ、最も危険なものなのかもなぁ。