耳の黄金の飾りは諫言

箴言を読んでいると、美しい表現でズバリ真実が言われていることが多々あるが、以下の言葉もその一つと思う。


Like an earring of gold or an ornament of fine gold
is the rebuke of a wise judge to a listening ear.
(Proverbs 25.12)


知恵をもって戒める者は、これをきく者の耳にとって、
金の耳輪、精金の飾りのようだ。
箴言 第二十五章 第十二節 口語訳)


聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは
金の輪、純金の飾り。
箴言 第二十五章 第十二節 新共同訳)


賢く諌めてくれる者は、聞く耳にとって、
金の輪であり、純金の飾りである。
箴言 第二十五章 第十二節 自分訳)


ネゼム・ザハヴ・ヴァハリ・ハーテム・モヒーアハ・ハハム・アル・オゼン・ショマアット



聴く耳を持った者にとっては、賢い諫言こそ、最も大切な宝であり、自らを美しくしてくれる、という意味だろう。


なるほど、と思う。


古今東西を問わず、多くの人にとって、特に君主にとって、諫言にどこまで耳を傾けるかは、非常に重要なことだった。
貞観政要をはじめとし、古来から中国では、諫言に耳を傾ける者こそが名君であると繰り返し説かれてきた。
にもかかわらず、大抵の場合、中国史では諫言に耳を傾けない暗君や暴君ばかりのオンパレードだった気がする。
中国に限らず、日本でも、君主にしろ事業家にしろ、諫言に耳を傾けるのが名君で、諫言を煙たがる場合はしばしば暗愚なリーダーになってしまう場合が多かったようである。


おそらくは、自分にとって煙たい意見であっても、それが賢い意見であるならば、それに耳を傾けることこそ、自分にとって黄金の耳飾りだと思うぐらいの度量や謙虚さがあった方が、人間は大過なくこの世を渡っていけるのだろう。


そしてまた、現実に受ける諫言ももちろんそうであるのと同時に、箴言の言葉などの、書物から受けるメッセージも、自らのこととして受けとめる時に、大切な耳の黄金の飾りになるのだと思う。