現代語私訳『福翁百話』 第九十二章 「お金以外に名誉ということがあります」

現代語私訳『福翁百話』 第九十二章 「お金以外に名誉ということがあります」




人間が欲しいと思うものが、この世においては宝とされます。
病気がなく健康であることや長生きすることはもちろん宝であり、経済的に豊かであることや高い地位であることや安らかで楽しいことも宝です。
この世界の人々がいつも健康を維持することを重視して病気を避け、日々に努力して財産を増やそうと志すことも無理ないことであり、そのようであるべきことです。
しかし、一般的には、人間の本当の心はとても高尚なものであり、単なる安らかさや楽しさや長生きだけによって満足することはできないものです。
さらに進んで、さらに大きなものを欲しいと思うところがあります。
つまり、名誉がそれです。


世の中には、お金ばかりの人でお金の他には何も求めるものはないと言われている人であっても、自分自身を省みて自分の生き方がどうであるかを考え、世の中の人の自分に対する付き合い方の暖かさや冷たさがどうであるかを観察する時は、何かしら物足りないように思われて、多少残念な気持ちがするのは、傍から観察し推測しても事実として間違いないことでしょう。
つまり、名誉心が満たされていないということで、この心を満足させ安心させるためにさまざまな工夫をして、ささいなことにも注意して体面を保ち、恥から遠ざかり、世の中の尊敬を得たいと思わない人はいません。
いわゆる大金持ちが服装や食事をきらびやかにして、邸宅を豪壮にし、場合によっては一度に莫大なお金を蕩尽する贅沢をほしいままするのも、自分自身の楽しみであることも間違いないことですが、一つの側面から見れば、他の人が簡単にしようと思ってもできないような散財はつまり大金持ちの威勢を現すものであり、世の中の目や耳を引き付けるので、贅沢もまた名誉のためにすると言っても良いことでしょう。
ましてや、自分の身には政治の力量もなく思想もない人間が、苦労し努力して選挙を争い、さらにひどい場合は私財を投げ捨てて貴族の爵位をもらえることを待つようなものは、言うまでもないことで、名誉のために身を焦がしている人だと言わざるを得ません。


ですので、私はこの名誉を求める心をとがめるわけではありません。
お金だけの人が利益を顧みずに名誉のために何かをしようとすることは人にとって高尚な心の働きであり、ともかくその心のありかはお金以上のところにあるのですから、良くないというわけではありません。
ただし、私の本当の願いは、さらに一歩進んで、この世界の人を全くお金の損得から離れて、お金ではないところに心の置き所を定めることこそ、名誉も大きく与えられるということを知らせたいと思います。
つまり、その心の置き所とは、智恵や知識、道徳や正義、才能や能力、マナーや振る舞いといったことであり、これらのことの上に独立自尊の気概があるときは、その気概や精神の発現として、社会生活でのコミュニケーションのありかたとなり、家庭生活での楽しい過ごし方となり、いかなる権力や横暴をも恐れることはなく、大金持ちや地位の高い人をもうらやむ必要はなく、心はこの世界の最高のところに安らかに位置して、この身はこの通俗的な暑苦しい世界に混じりながら、他人が愚かであっても軽蔑することなく教え導くことを工夫し、他人の悪をとがめずにむしろあわれみの心を持って接し、焦ることなく急ぐことなく、悠々と大らかな気持で暮している時は、古い歌で言うところに「色をも香をも知る人ぞ知る」(「君ならで誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る」(古今和歌集 紀友則))という道理のとおりで、自然と世の中の尊敬を得ることは疑いありません。
つまり、これこそが直接求めるのではないけれども、結果として名誉を得るということ、「求めざるの名誉」なのです。


ですので、今の世の中の人で智恵や道徳やマナーや行為が完全な人はいるはずがありません。
このようにペンを持って書いている私自身も顔が赤くなることこそ多いものですが、卓越した智恵や道徳の話はしばらく置いておくとして、ともかく人間は動物と異なっていて、肉体的な欲望以上に欲求するものがあり、財産以外に求めるものがあると、心に思いが起こる以上は、自分から本を読むべきですし、読書が得意ではないならば世の中の立派な人と交際することを求めて良い話を聴くべきです。
もしくは、宗教家の説法もすばらしいものですし、あるいは本や新聞などの論説を他の人に朗読してもらって聴くのも良いことです。
だんだんとそうしたことを聴いて、詳しく理解するようになれば、だんだんとこの世界の名誉はたいしたことがないことに気付くようになることでしょう。
この世界の名誉がたいしたことがないと気付くのは、さらに大きな名誉があると気付くからですが、ただ本人自身はそうと理解しない場合があります。
そのことを自分では理解していない名誉と言います。


今の大金持ちの中には、非常に貧しいところから身を起こした人もいることでしょう。
富を持つことはその本人の私的な理由だけでなく、国のためにも良いことですが、その金持ちの会社や家が繁栄するのとともに、その人自身の気品も同時に向上していくのかどうかは、大変疑わしいところがあります。
もし、財産だけは大金持ちに今はなっても、その品格や心が依然として昔の貧しい状態のままで、肩に天秤棒を担いでいた貧しい立場のままならば、たとえ今現在は服装や食事がきらびやかになり、人付き合いを盛んにし、地方や国の議員の名誉を担うようになっても、あたかもそこらへんの卑しい下郎にいきなり巨万のお金を授けて、美しい衣装を着せて世間に突出し、なんらかの公の議会に列席させたのと同じです。
その財産を取り上げて、自分の身体以外の物を除き去る時は、たちまち元の正体が現れて、残るのはただの知識もなく学もない、卑しい粗野な下郎の身があるだけです。
なんとも殺風景なことではないでしょうか。
一般的に、世の中の物事はつり合いがよくとれていてこそはじめて美しいものであり、人の称賛も得られるものでしょう。
錦の衣に縄の帯をつけていたら不釣り合いだと言うのであれば、財産が大金持ちになってもその持ち主の品格が卑しい下郎であることもまた大いなる不釣り合いであり、私はそのようなことをこの世界において良いものとみなすことはしっくりと感じることができません。
ただ、願うことは、そうした人々を、お金以外に存在する大きな名誉というものがあると気付かせ理解させたいということだけです。