現代語私訳『福翁百話』 第七十五章 「金持ちは必ずしも楽しいことが多いわけではありません」

現代語私訳『福翁百話』 第七十五章 「金持ちは必ずしも楽しいことが多いわけではありません」




貧乏は大変良くないことです。
家に財産がなくて、他の人に迷惑をかけたりするのは、第一、人間は独立して生きるべきだという、人として守るべき大切な事柄に反しています。
それだけでなく、日々の暮らしの不自由さはなんとも言えないほどの苦しみであり、その困窮のために、人物も愚かなものになってしまい、人相まで変わってしまう場合も多いものです。
ことわざに、「四百四病の中に貧ほど憂きものはなし」(あらゆる病気の中でも貧乏ほどつらいものはない)というものもありますが、決して言い過ぎではありません。


ですので、貧乏の苦しい境涯から抜け出し、経済的に豊かな安心できる身になろうとするのは、人間の普通の欲求であり、この世の中に一万人いるならば一万人、みんなこの欲求に支配されているものだと言うことができるようです。


ですが、今、金持ちと貧しい人の両方の様子を比較して、金持ちは、ちょうど割合において、貧乏な人が苦しいように、楽しいものかと尋ねるならば、決してそうではありません。


貧乏の苦痛はほとんど果てしがないもので、しまいには自殺したり飢え死にしてしまうまでに至るものですが、金持ちの楽しみはこのようにはっきりとこの身にわかるものではありません。
自分が持つ財産の効果は、ただ単に貧しい苦しさを治して、心身を安楽にさせるだけにとどまり、それ以上はどんなにお金を増やそうとも、自分の身には直接の働きはないものです。
その増えに増えた財産は、ただ万一の時に貧しさの苦しみを防ぐための用意であり、たとえるならば、実際に着るわけでもない衣服を何枚も何枚もタンスの引き出しに収納して、実際に役に立つかどうかに関係なく、しばしばその衣服を眺めてひとりで安心しているようなものです。
収入が一千万(原文は千円)の人と、一億円(原文は万円)の人と、その苦しみや楽しみがどうかと問うならば、両方ともすでに飢えや寒さは免れている上は、そんなに日常の着たり食べたりするものが実際に非常に異なっているということはありません。
あるいは、必要な衣食を超えて、贅沢の限りを尽くすならば、一年に五億円も十億円も使うことでしょうが、十億円を消費する人の楽しみが、年収一千万の人と比較して百倍にはなりません。
それだけでなく、場合によっては、その快楽に、一種の言葉では言い表せない苦痛が伴い、苦しみと楽しみが同じぐらいになってしまい、ただ空しく捨て金を使っているだけになるという事実は、この世の中に普通にあることです。


ですので、世界中の昔や今の投資家や実業家が、しきりに貯金に熱心に励んで、ほとんど止まるところを知らないのは、貧しい苦しみから免れるためだけの工夫ではありません。
資産の力によって勢力を振い、ちょっとした顔の表情をしかめたり笑ったりすることで、他の人が喜んだり心配したりするようにさせようという虚栄心であり、そのための経営の努力は、学者の苦学や、宗教家の布教、政治家の国家経営の苦労と等しく、生涯満足を知らずに死んでいくものです。


ただ、貧乏人は、この金持ちの気持ちを理解することができず、楽は苦の反対だと信じて、貧しいことと苦しみと、金持ちであることと楽しみは両方とも反対のもので、逆に比例して苦しみや楽しみの度合いを計ろうとするのは、結局、貧しいがために金持ちの様子や気持ちを知らないことの罪です。
いわゆる清貧に安んじるなどというようなことは、愚か者が言うことで、もちろん取るに足らないことですが、仮にも衣食がもうすでに不足がなくなった以上は、安心や楽しみのための方法は必ずしも金にあるわけではありません。
立派な人物は、自分の長所をよく考えて、自分で工夫すべきところです。