添田唖蝉坊 「あきらめ節」

添田唖蝉坊は、明治・大正の頃に活躍した歌手。
世の中を風刺したすごい歌だということは、以前少し知って驚いたことがあったが、最近youtubeで聴いて、あらためてすごいなぁと感心している。

特に、胸を打たれるのが「あきらめ節」。


これを見ていると、大正の頃から、あんまり今の世も変わっていない部分もあるのかもしれないと思える。
だが、唖蝉坊たちのように、笑い飛ばしながら、あきらめない人がいたからこそ、曲りなりに多少はマシになった部分も多々あるのだろう。


ちなみに、添田唖蝉坊は、辻潤幸徳秋水堺利彦らと仲が良かったらしい。
社会主義、というよりは、アナーキズムみたいな土壌や精神風土と言えばいいのだろうか。


なんというか、すごい歌があの昔にあったものである。


wikipedia等を見ると、演歌の草分けというような形容が添田唖蝉坊になされているけれど、全く社会風刺が存在していない今の演歌とは、だいぶ異なっているのではないかと思える。
百年も経つうちに、源流とはだいぶ変わってしまったということだろうか。



「あきらめ節」 添田唖蝉坊


地主金持ちはわがままもので 役人なんぞはいばるもの
こんな浮世へ生まれてきたが わが身の不運とあきらめる


お前この世へ何しにきたか 税や利息を払うため
こんな浮世へ生まれてきたが わが身の不運とあきらめる


米は南京おかずはひじき 牛や馬でもあるまいし
朝から晩までこきつかわれて 死ぬよりましだとあきらめる


汗をしぼられ油をとられ 血を吸い取られてその上に
ほうり出されてふんづけられて これも不運とあきらめる


苦しかろうが又つらかろが 義務はつくさにゃならぬもの
権利なんぞをほしがることは できぬものだとあきらめる


たとえ姑が鬼でも蛇でも 嫁は素直にせにゃならぬ
どうせ懲役するよなものと 何も言わずにあきらめる


借りたお金は催促されて 貸したお金は取れぬもの
どうせ浮世はこうしたものと 私しゃいつでもあきらめる


長いものにはまかれてしまえ 泣く子と資本家にゃ勝たれない
貧乏は不運で病気は不幸 時世時節とあきらめる


あきらめなされよあきらめなされ あきらめなさるが無事であろう
私しゃ自由の動物だから あきらめきれぬとあきらめる