現代語私訳『福翁百話』 第十二章 「人助けは相手のためではありません」

現代語私訳『福翁百話』 第十二章 「人助けは相手のためではありません」




街中で困っている人を見て、その人を助けたり、その人にお金を恵んであげたりすることは、自分の一時的に起こった情けやあわれみの心を静めるための手段です。


さらに一歩進んでその人がそうなってきた原因や事情をきちんと調べるならば、中には本当に不運で不幸な人も多いことでしょうが、中には日ごろの心がけが悪くとうとう他の人に恵んでもらう境遇に陥った人もいることでしょう。
いわゆる自業自得の人もいることでしょうし、さらにひどい場合にはわざと困っている様子を演技して、自分で目が見えなかったり耳が聞こえないふりをして、あるいは隣に障害のある子どもを連れて自分の子どもだと偽る人もいるかもしれません。


それらのことは、この上なくけしからぬのことのようではありますが、助けてあげる側の身からすれば、それらのことは別に細かいことまで調べる必要は全然ないことです。


もともと、助けてあげる側の人間は、深いねらいや考えがあるわけではなく、ただ通りすがりに気の毒な人の姿を見て少しばかりの物を与えてあげて、これを受け取った人が感謝して、一時的だとしても悩み苦しむ表情が消えて喜ぶ表情になれば、別に他に望みはないことでしょう。


たとえるならば、枯れ木のさびしい枝にちょっとだけ花が咲き、曇った夜空の月がちょっとだけ光を放つようなものです。
その花と月を見るのは、見る人のためであり、見られる側のためではありません。


この世界においては、しばしば今述べたことを勘違いして、ほんの少しのお金や物を与える場合でも、ともすれば相手方の身元や事情を疑い、あの乞食はかくかくしかじか、あの目が見えない人はこうこうだなどと、わざと理屈をつけて追いはらい叱り倒す人がいます。
それらは不当なことです。


たとえ、それらの人たちが本当にけしからぬ人であっても不届きであっても、それは向こう側のことであり、自分はただ一時的な人助けによって同じ人間が泣くのをやめて笑う姿を見るだけのことです。


ましてや、困っている人は必ずしもけしからぬ人々ばかりでは決してないのであり、中には本当に不運で不幸な人も大勢いるのですから、これらのことは言うまでもないことです。


ましてや、自分が与えるものといっても、本当にほんのわずかなものであり、自分の財産をそれほど左右するわけでもない場合においては、言うまでもないことです。


美しい自然や花鳥風月を見ると思えば、本当に金額的には安いものです。


ですので、ここからさらに進んで、乞食の人の話以外についても、一切の寄付や慈善事業、義捐金なども、すべて相手のためでなく、自分の情けやあわれみの心を満足させるための手段だとすれば、必ずしも人に名前を知られる必要もないことでしょう。
また、自分の名前を他の人に知られても、なんら差支えないことですし、知られないこともまたかまわないことでしょう。


その辺のことは、自然の成り行きに任せて、特にこだわらないことこそ、大きな人物というものでしょう。


この世界ではしばしば、人助けや慈善事業を行いながら、人に知られるのをことさら恐れて自分の名前を隠す人がいます。
また、しばしば、わざと世の中に公にして、自分の名前を売ろうとする人もいます。


名前を広めるために慈善事業をすることは俗物がすることであり、心の品格が低いものですが、だからといっていろいろと心配して名前を隠そうとするのも、必ずしも俗世間から超越しているというわけではありません。


花見に出かけて他の人に顔を見られるのも、見られないことも、べつに深く気にかけてこだわる必要のないことで、自分はただ花を見て美しいものを愛するという心を満足させるだけのことです。