心情倫理だけの政治家はもういらない 鳩山さんの引退を聞いて

■公認もらえず決断…鳩山元首相が引退を正式表明
(読売新聞 - 11月21日 18:50)
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/news1/20121121-OYT1T01017.htm?from=top


鳩山さんが政界を引退するという。


鳩山さん自身の今までの行動、および鳩山さんを今も支持したり擁護をする人々を見ていると、それらの人々の思考方法は、要するに、


「心情倫理」と「責任倫理」の区別がついていないのだと思う。


ヴェーバーは『職業としての政治』の中で、この二つを明確に指摘している。
政治家というのは、いかに心情が純粋であっても、結果を予見し、結果に責任を持つ「責任倫理」が問われる。
それこそが、政治というものだということを、第一次大戦直後の深刻な情勢の中で、渾身の力をこめてヴェーバーは説いた。


岩波文庫でほんの数百円で読めるし、うすい本なので、できれば全国民に読んで欲しい。


責任倫理を持たず、心情倫理だけの人間が指導者になってしまった場合、どれほどの混乱が国政に起こるのか。
また、責任倫理ということを弁えず、心情倫理しか理解しない人々が、そのような指導者をさえ、その後に支持し続け、責任倫理を弁えたその後の首相の足を引っ張り続けると、それがいかに国政に混乱をもたらすか。
そのことを目の当たりし続けた二十一世紀の日本は、二十世紀初頭のヴェーバーの到達していた知見に到底及ばないものだった。


もっと言えば、アリストテレスは、「願望」と「選択」の峻別を『ニコマコス倫理学』の中で明晰に指摘している。
単なる「願望」と、さまざまな条件の中で熟慮し、可能な範囲で善い結果を求める「選択」は、全く異なるものである。
しかし、鳩山さんや、鳩山さんを支持する人々は、その点が全くわかっておらず、選択の大切さや熟慮を忘れ、ただ願望だけで世の中を動かそうとした。
それらの人々の政治的知性は、いわば古代人以下であった。


本当の問題は、鳩山さんが首相を引退した後にも、心情倫理や願望だけで、始終、菅政権や野田政権の足を引っ張り続けた人々である。
鳩山さん自身がその先頭に今まで立ってきたが、今回政界引退をしてくれたし、おそらく今後はみずからの言動も慎んでくれると期待したい。


民主党であろうと、自民党であろうと、その他の政党であろうと、もう二度と、心情倫理だけで責任倫理を持たない政治家はいらない。
願望だけで熟慮ある選択をできない政治家はいらない。
そのような政治家や、そのような国民の政治的行動は、国家社会にとって大害をなすだけである。


もっとも、鳩山さんは心情としては純粋な良い人なのだろう。
今後は、一個人として、政治を離れて、一人の善い人間として、世のため人のために尽くされるといいのではないか。
あれほどの巨万の富を持っていれば、いくらでも慈善事業などに寄付もできるだろう。
友愛や弱者のためにと引退の記者会見でも言っておられたようだが、そうであれば、いろんな慈善事業やアムネスティーや、あるいは民主党政権が若干協力していた湯浅誠さんらの貧困問題の取り組みに、全財産とは言わないまでも、財産の幾分かを提供するだけでも、かなりなことができるのではないか。