今日は徳川慶喜の命日らしい。
徳川慶喜は、おそらくは、非常に優秀な、そしてすぐれた人だったのだろうと思う。
大政奉還や江戸城無血開城を決断したということも、どれほど日本にとって大きな貢献だったかわからない。
おそらくは、あの時代のどのような人物と比べても、よく情勢を把握しており、そして自らを捨てた決断をできた、本当の愛国者だったのかもしれない。
坂本龍馬が、「この君のためなら死ねる」と、大政奉還に感激して言ったそうだけれど、その気持ちもわかる。
一方で、会津や奥羽列藩同盟の立場からすれば、たまったものではなかったろうなぁと思う。
鳥羽伏見で前線で将兵が戦っているのに、慶喜が単身江戸に帰ったことを知った時の、会津やその他の前線の人々は、どれだけ悔しくやるせなかったろう。
その後も、あっさりと慶喜が降伏してしまった後に、戦い続けた会津や幕府方の人々は、どれほど悔しく、無念だったろう。
そのことを、慶喜自身もよくわかっていたから、大正の頃まで生きていたのに、明治の間、ただの一度も表面に出ず、ずっと隠棲を続けていたのだろう。
あれほどの知性の持ち主だから、本当ならば世の中に出て言いたいこともあったろうに、身の処し方は見事だったと思う。
後世の我々からはなかなかわからないし、単純に比較するのはなんなんだろうけれど、私の祖父母の世代が、昭和天皇に対して抱いていた愛憎こもごもの複雑な感情と似たものを、ひょっとしたら、明治の頃の旧幕臣は慶喜に対して抱いていたのかもしれない。
そのことを、また、慶喜自身、よくわかり、よく担い続けた生涯だったのかもしれない。
ああいう立場の人の苦しみというのは、たぶん、傍からは到底わかりえないものなのだろう。
ただ、そのことを踏まえた上で言うと、短期的には慶喜ほど日本に貢献した人はいなかったのと同時に、瘠我慢の精神を慶喜ほど知らず、廃棄してしまった人も、めったにいなかったのかもしれない。
福沢諭吉の「瘠我慢の説」は、本当は勝や榎本にではなく、慶喜に言いたかったことなのかもしれない。
しかし、慶喜には言えなかったのだろう。
それで、勝や榎本に言ったのかもしれない。
いや、慶喜は、明治になってから一切官職につかなかったということにおいて、節を守っており、その点で、勝や榎本に比べて、福沢は慶喜を良しとしていたのかもしれない。
「瘠我慢の説」は、勝や榎本に、少しは慶喜に見習えと言いたかったことなのかもしれない。
いずれかわからないけれど、そういえば、不気味なほど、福沢が慶喜について言及しているところを見た記憶がない。
あえて黙っていたのか、あるいは無関心だったのか。
たぶん、かつての幕臣の慶喜に対する複雑な気持というのは、後世の我々は昭和天皇に対するあの世代の感情から類推するほかない、いわく言い難いものだったのだろう。
慶喜は、ある意味、非常に日本人的な、日本的な美徳や美学の持ち主だったのだろうと思う。
と同時に、慶喜ほど、日本的な美徳や美学と正反対の生き方をした人もいない気もする。
後世の人間が軽率に論評することがこれほど難しい人間も、他にあんまりいないと思う。
ただ、慶喜の「あきらめ」というのは、深い悲しみを湛えたものだったような気がする。
あれほどの「あきらめ」の深さというのは、めったに古今東西の歴史の人物にはない気がする。
そして、そのような「あきらめ」というのが、時と場合と立場によっては、人は大事なのかもしれない。
もっと小さな状況や立場においても、場合によっては、「あきらめ」が必要な場合もあるのだろう。
会津の人々や雲井龍雄のように、あきらめない生き方を貫いた人々も、真に美しく、本当の勇気や義というものを後世に伝えてくれているとは思うけれど、慶喜のような人々も、また違った形で、人間の悲しさや、あるいは場合によっては前者以上の賢さを、うちに持っていた人なのかもしれない。