「勇ましく高尚な生涯」かどうへの配慮をこそ

「勇ましく高尚な生涯」こそ、私たちが後世に遺せる最も偉大なもの。

ということを、内村鑑三に影響されて、考えると、どのような人々が思い浮かぶだろう、ふと考えてみた。

最近、読んでいて感銘を受けた本というのは、要するにどれも、「勇ましく高尚な生涯」やその思いの産物だったんだなぁと思う。

セネカキケロマルクス・アウレリウスなど、古代ローマ人の著作に、私たちが大きな感銘を受けるのも、要するに彼らが「勇ましく高尚な生涯」だったからだと思う。

幕末や明治の志士たちが私たちに大きな感銘を与えるのも、その生き様が「勇ましく高尚な生涯」だったからだと思う。

先の大戦における、硫黄島の将卒や、特攻隊等の人々が深い感銘を今に与えるのも、要するに彼らが「勇ましく高尚な生涯」を後世に最大の贈り物として遺してくれたからだと思う。

311の大震災においても、いろんなそうした実例を、私たちはいくつか聞き知った。

いつの時代も、そして決して目立たないところにも、多くの「勇ましく高尚な生涯」があるのだと思う。
金や事業の成功も、それはそれでもちろん良いことだろうし素晴らしいことなのだろうけれど、本当の意味で人に感化を与え、人を生かすものは、「勇ましく高尚な生涯」なのだと思う。

イデオロギーは別にして、私たちがチェ・ゲバラの風貌や生き方にある種の感動を覚えざるを得ないのも、彼が身を以て「勇ましく高尚な生涯」を実践したからだと思う。

結局、人は地位や肩書や立場や、あるいは政治的な党派すらどうでも良いことで、「勇ましく高尚な生涯」であったかどうかが、一番大事なことなのかもしれない。

しかるに、私たちの現状はどうなのだろう。
時の政府を汚い言葉でこき下ろせば、何か立派なことでもしていると勘違いしている人が右にも左にも随分多いが、彼らの言葉や思想内容や実際の身振り手振りや語りかたが、「勇ましく高尚な生涯」の名に値するのか。

そのことは、実はとても大事なことであり、最も考慮すべきことのように思う。

311後の日本人は、実に身を以て「勇ましく高尚な生涯」を実践した人も数多くいる一方で、いかにそれからかけ離れているか、醜いありさまを見せた人々も数多かった。

「復興」は単に震災復興のみならず、日本社会のありようや人間性の復興であるべきだということが、当時いろんな人からしばしば言われたが、要するに、このことへの配慮の感覚を取り戻すことが、一番大事な気もする。