現代語私訳『福翁百話』 第三十章 「世話という言葉の意味を間違ってはいけません」

現代語私訳『福翁百話』 第三十章 「世話という言葉の意味を間違ってはいけません」




自分の人生において、すでに独立して自分の力で生活するようになった場合は、たとえ親子の間であってもむやみやたらとお互いに干渉すべきではありません。
ましてや、他人において干渉すべきでないことは言うまでもないことです。
親戚や友人の間でも、余計なことは一切干渉すべきでないことは本当はわかりきったことです。


しかし、この広い世間を眺めていると、ともすればお互いに余計な干渉をし合っており、この干渉によってお互いに不平や苦情が生じています。
一方の側が、余計な世話をしてくるものだと不平を言えば、もう一方の側は、その相手のことを本当に困った相手だと感じていて、どれほど世話をしてあげてもちっともこっちの言うことを聞かない、と言っています。
そうして、お互いに同様に不平をこぼし、双方の不平不満が衝突し、ついには親子仲が悪くなったり、親戚同士の喧嘩となったりして、本来は楽しく過ごせるはずのこの人生を、苦しいつらい境遇に変えてしまっている人がいます。


結局、その根本の原因を尋ねるならば、「世話」という言葉の意味を理解することにおいて粗雑であることによります。


人の生活費を援助して衣食住を与えること、あるいは直接的に衣食住を与えなくても間接的に衣食住を得るための方法を教え手段を与えることを、世話と言います。


もしくは、実際の物事を保護することには関係なく、ただいろんな相談相手になってあげて、場合によってはアドヴァイスなどをすることも、世話と呼ばれています。


このように、二種類の意味があるため、上記のような不平の原因となった世話とは、はたしてどちらの意味の世話なのか、そのことをきちんと調べるならば、何が正しく間違っているかは明白になることでしょう。


自分の身がまだ独立できておらず、直接的に人の援助を受けているか、あるいは間接的に人の保護を仰ぎ恩恵を被っている場合は、その状態に応じて援助や保護を与えてくれている人の指示に従うべきですし、その命じるところを尊重すべきです。
これは当然のことであり、その相手から干渉を受けたとしても、少しも不平を言うべきではありません。


もしくは、実際の援助や保護は与えず、ただ親切にアドヴァイスするだけの場合は、相手がその親切を無にして少しもアドヴァイスを聞かないことがあっても、そのことに対して不平を持つことがあってはなりません。


たとえば、金持ちの子どもが成人に達した後も、まだ両親の財産に依存し、親が建てた家に住み、親が与えてくれた衣服を着て、朝夕何の不自由もなく暮すだけでなく、贅沢をし放題で、世間に対しては表面をうまく取り繕い、口先や振る舞いに関して一人前の独立した大人であるかのように気取って、両親の拘束を完全に脱して自由気ままであることを求め、その要求のとおりにならないと両親に対して余計なお世話だと言い放つようなことがあります。


あるいは、田舎だと、頑固な親戚のおじさんが、一族の年長者の威光を笠に着て、甥などの年少者の親戚の家に勝手に入ってきて、実際の援助は何もしたことがなく、逆に自分が年少の親戚たちから援助を受ける身であるのに、しばしば年少の親戚の家の事柄に干渉して余計な口を挟み、年少者を煩わして、そのうえ年長者の言うことを聞かないなどと不平不満を鳴らすようなことがあります。


これらは、どちらも「世話」という言葉の意味を誤っていると言うべきです。


要するに、現実に実際の金銭や生活の援助の世話までしている人の場合は、その世話の規模の大きさに準じて指示や命令などの世話も一緒に行うことがあってしかるべきです。


しかし、そうではなくて、実際の金銭や生活などの援助をしているわけではなく、単なるアドヴァイスに止まっている場合は、そのアドヴァイスを相手が聞き入れないからといって不平を持つべきではありません。


これが、人間の社会における、ギブ・アンド・テイクの交換の原則に基づいた、世話に関する道理だと理解すべきです。