ダンマナンダ長老 ハッピーマリードライフ 6章 安全、尊敬、そして責任

ダンマナンダ長老の「ハッピーマリードライフ」の第六章を翻訳した。


第六章はかなり長かったので、なかなか骨が折れた。
だが、本当に素晴らしい内容だと思う。
多くの人に読んでもらいたい。




ダンマナンダ長老 ハッピーマリードライフ 6章 安全、尊敬、そして責任


・不安定な感覚について


これまで、法的に認められていないような結婚は存在しませんでした。
男性と女性は相互に夫と妻としてお互いを受け入れることを決め、その後、共に生活しました。
結婚は地域共同体の存在の中で執り行われましたし、離婚は稀でした。
最も重要なことは、それらの過去の人々が本当の愛を育み、お互いの責任を尊敬していたということです。


結婚の法的な登録は、安定を確かなものとし、所有権と子どもを守るために、今日では重要なものです。
不安定な感覚を持っていることが原因で、カップルは自分たちの法的な制約を確かなものとするために法的な結婚を行い、義務を怠ったりお互いを悪く扱ったりしないようにします。
今日、一部のカップルたちは、もし離婚した場合の財産所有権をめぐって法的な契約をさえ作成しています!



・夫と妻


仏教の教えによれば、結婚において、夫は妻から以下のことを期待できるとされています。


・愛
・注意深さ
・家族の義務
・誠実
・子どもの世話
・節約
・食事の用意
・自分が混乱し動揺している時に落ち着かせてくれること
・万事に優しいこと


その代わりに、妻が夫に期待できることは、以下のこととされています。


・思いやり
・礼儀正しさ
・社交性
・安全
・公正
・忠実さ
・正直さ
・良い話し相手であること
・道徳的・精神的な支援


これらの感情や感覚の側面とは別に、カップルは日々の生活の状況や家計や社会的な義務を大事に担当しなければならないことでしょう。
したがって、あらゆる家族の問題についての夫と妻がお互いによく相談することは、なんであれ起こるかもしれない問題点を解決していくにあたって、信頼と理解のある雰囲気を生じさせることに役立つことでしょう。


カップルへの仏陀のアドヴァイス


Ⅰ、妻


結婚生活における女性の役割についてのアドヴァイスの中で、仏陀は家庭の平和とハーモニーが女性によるところが大きいことを高く評価しています。
女性が育てるべき性格、あるいは育てるべきでない性格についての多くの教えを仏陀が説いた時の、仏陀のアドヴァイスは現実的で実践的なものでした。
さまざまな機会に、仏陀は結婚した女性に以下のようにすべきだと助言しています。


a) 夫に対して悪い思いを懐かないこと
b) 冷たかったり、とげとげしかったり、横暴であることがないこと
c) 浪費すべきでなく、自分の財産の範囲で倹約し生活すること。
d) 夫が苦労してやっと手にした稼ぎと財産を守り蓄えること
e)心と行動とにおいて、いつもよく気がつき、貞節であること
f) 誠実であり、いかなる不倫行為についての思いも懐かないこと
g)話すことにおいて洗練されており、行為において礼儀正しいこと
h)親切で、勤勉で、よく働くこと
i) 夫に対し心のこもった思いやりがあり、母が自分のひとり子を守るような愛と関心と等しき態度
j) 慎み深く、丁寧であること
k)冷静で、穏やかで、理解あること。妻であるというだけでなく、友として、必要な時にはアドヴァイザーとしての役目を果たすこと。


仏陀の時代においては、他の宗教の指導者も夫に対する妻の義務や責務を説いていました。
特に妻が夫のために子どもを産む義務を強調し、そのことを誠実な奉仕とみなし、結婚の幸福の条件としていました。


一部のコミュニティでは、家族において息子を持つことがとても特別なことです。
それらの人々は、来世が良いものとなるための葬式儀礼を行うために息子が必要だと信じています。
最初の妻が息子を持つことに失敗すると、男性は息子を得るために他の女性を持つ自由が与えられます。
仏教徒はそのような信仰は支持しません。


カルマの法則について仏陀が教えたことによれば、人は己の行為とその結果に責任があります。
息子か娘のどちらが生まれるかは、父や母によってではなく、その子どものカルマによって決められます。
また、父や祖父の幸せは、息子や孫の行為によるわけではありません。
各自が自分の行為に責任があるのです。
つまり、妻を責める人は間違っているのであり、息子が生まれなかった時に不満を感じる人も間違っているのです。
このような啓発的な教えは、多くの人のものの見方を正しくすることに役立ちますし、また、息子を生むことができないと「先祖への儀礼」ができないのではないかという女性たちの心配を減らすことに役立ちます。


妻の夫に対する義務は、儒教の規範の中にもありますが、しかし儒教の規範は妻に対する夫の義務や責務には重きを置きません。
しかし、シガーラ教誡経(善生経)の中で、仏陀は明らかに夫の妻に対する責務とその逆の場合も同様に言及しています。



Ⅱ、夫


夫がいかに妻に対する務めを果たすべきかということの答えとして、夫は常に妻を尊敬し敬意を払うべきことを断言しています。そのために、妻に対して誠実であること、家庭をやりくりするために必要な権限を妻に与えること、よく似合う飾りをプレゼントすることを述べています。
このアドヴァイスは、二千五百年以上前に与えられたものですが、今日もなお依然として真実です。


自らを優越したものだとみなす傾向のある男性の心理を知っていたので、仏陀はシンプルな提案によって女性の地位を引き上げて目を見張るような変化をもたらしました。
その提案というのは、夫が妻を尊敬し敬意を払うべきだということです。
夫は妻に誠実であるべきです。つまり、あらゆる意味で結婚関係における信頼を維持することで、夫は妻に対する結婚の責務を満たし維持するべきです。


夫は、一家の稼ぎ手ならば、家をあけることでしょう。したがって、財産と家における家計の管理者・分配者として妻をみなすべきで、その妻に、家の中の、あるいは家族の義務を信用してゆだねるべきです。
よく似合う飾りを妻に与えるということは、夫の愛のしるし、妻に対して示す配慮と注意のしるしであるべきです。
このしるしとしての実践は、遠い昔から仏教徒のコミュニティでは行われてきました。
不幸なことに、現代の文明の影響のためにこの実践はなくなってしまう危険のもとにあります。


・過去


過去において、大半のコミュニティの社会的な構造は私たちが今日見出すものと異なっており、夫と妻はお互いに相互依存していました。
パートナーシップにおけるそれぞれの役割をよく各自が知っていたために、相互理解と、相互の関係が安定して存在していました。
公衆の面前でお互いに抱き合うことで、一部の夫婦が他人に示そうとする「愛」は、本当の愛や理解を必ずしも指し示すものではありません。
過去においては、結婚したカップルは自分たちの愛や内なる感情を公には示しませんでしたが、彼らは深い、以心伝心とさえも言える理解と、お互いへの敬意を持っていました。


ある国々においては、妻が夫の死後は自分の人生を犠牲にしなければならず、未亡人は再婚を禁じられるという、古来の習慣を人々が持っていました。そうした習慣は仏教とは無関係です。仏教は、妻を夫よりも下位の存在とはみなしません。


・現代の社会


一部の女性たちは、家族の養育に自分たちが専念していることが、自分たちの品位を下げ保守的なことではないかと感じています。
過去において女性がひどく扱われてきたことは本当ですが、子どもを育てることが女性によるという考えは、女性の生まれつきの弱さによるというよりも、男性の側の無知により多く起因するものでした。


教育、職業、政治、その他の道の分野において、男性と平等になろうと長年の間、女性たちは奮闘してきました。
彼女たちは今や大部分男性と同等です。
男性はおおむね生まれつきアグレッシブで、女性はより情緒的です。
家の中の場では、特にアジアでは、男性は家族の長としてより支配的で、一方女性は受動的(パッシブ)なパートーナのままでいる傾向があります。
覚えておいてください、「受動的」(パッシブ)とは、ここでは「弱い」ことを意味しません。むしろ、「柔らかさ」や「優しさ」というポジティブな性質のことです。
もし男性と女性が男らしさと女らしさを自然から受け継いでおり、そしてその尊敬すべき強みを認識するならば、その考え方は男性と女性の間に快適な相互理解をもたらすことができることでしょう。


ガンジーの言及


「私は女性に適切な教育というものがあると信じています。しかし、男性を模倣したり、男性と競い合うことによって、女性がこの世界に貢献することはないだろうと信じています。女性は男性と競い合うことはできます。しかし、男性を真似ることによって、女性が、女性の達することのできる偉大な高みに上がることは、ないことでしょう。女性は男性と補い合うべきなのです。」


・親の責任


すべての人間社会の基礎は、親と子どもの込み入った関係です。
母親の義務は、時に大きな負担であっても、子どもを愛し、世話し、守ることです。
このことは、自己犠牲的な愛だと仏陀は教えています。子育ては、実践的なことであり、ケアであり、寛容であり、無我(無私、セルフレス)です。
仏教徒は、両親は、すべての植物や動物を大地が世話し育むように、子どもを世話し育むべきだと教えられています。


両親は、子どもの幸福と躾に責任があります。
もし子どもが強く、健康に、人の役に立つ市民として成長するならば、それは両親の努力の結果です。
もし子どもが不良に育ったならば、両親はその責任を荷わねばなりません。
もし子どもが道を誤るならば、人は他人や社会を責めてはなりません。子どもを適切な道に導くのは、親の義務なのです。


こどもは、その最も多感な年代において、両親の優しい愛情やケアや注意を必要としています。
両親の愛と導きがなければ、子どもは不利な立場となるでしょうし、この世界を生きていくのに途方にくれることでしょう。
しかしながら、両親の愛やケアや注意をそそぐことは、理にかなったものであれ、そうでないものであれ、子どものすべての必要を甘やかし満たすということを意味しません。
あまりにも甘やかすことは、子どもをだめにしてしまいます。母親は、愛やケアを与える際、子どものぐずつきを取り扱うことにおいて厳しく確固とした態度でもあるべきです。
厳しく確固とした態度であることは、子どもにつらくあたることを意味しません。
愛を示してください。しかし、規律ある手で調節してください。子どもは理解することでしょう。


不幸なことに、今日の親たちの間では、親の愛はひどく不足しています。
物質的な進歩と女性解放運動と平等への熱望とに、あまりにも突進する結果として、母親たちは、自分たちの子どもの面倒を家で見続けることよりも、オフィスや店で働いて時間を過ごすことを、夫たちに加わって行っています。
子どもたちは、親戚かあるいはお金で雇われたシッターの世話に任せられ、母親のやさしい愛やケアを拒まれていることに当惑しています。
母親は、注意の不足について罪の意識を感じながら、子どもが必要とする類のものをすべて与えることで子どもをなだめようとします。
そのような行為は子どもをだめにしています。戦車やマシンガンやピストルや剣のような現代のあらゆるおもちゃを子どもに与えることや、そのような器具を妥協策として与えることは、心理的に良くないことです。


そのようなおもちゃで子どもをとりこむことは、母親の優しい愛や情愛の代わりにはなりません。
親の愛情と導きが欠けていたら、もし子どもが結果として不良に育ったとしても、驚きではありません。
そのとき、誰が強情な子どもを育てた責任を持つべきでしょうか?もちろん親です!働いている母親は、特にきつい一日中のオフィスでの仕事のあとで家事に従事する働いている女性は、ケアや注意を渇望している子どものために時間を見つけることはほとんどできないことでしょう。


子どもために時間を持つことのできない両親は、老いた時に子どもが自分たちのために時間を割いてくれないことに不平を言うべきではありません。
子どもために多くのお金を使ったのにと不平を言う親は、しかし、自分たちの「忙しい」子どもたちが、次々に、老後のための高価な家を離れ去っていくことに対して、不平を言うべきではありません。


ほとんどの女性は今日、家族がより物質的なメリットを受けることができるために働いています。彼女たちは、ガンジーが男性に対して与えたアドヴァイス、必要からの自由よりも貪欲からの自由を求めるべきだというアドヴァイスを、真剣に考慮すべきです。
もちろん、今日の経済状況を前提にすれば、一部の母親たちが働かざるを得ないことは否定できません。
そのような場合は、彼らが外にいっている時の子どものさみしさを埋めるために特別な犠牲を父親と母親とが払うべきです。
もし両親が子どもと家において働かない時間を過ごすならば、親と子どもとにより理解が生じることでしょう。


仏陀はその教えの中で、親が守るべき大事な指針として、ある重要な義務と働きをあげています。その主要な指針のひとつは、教えや実践や行為によって、子どもを悪いことから遠ざけるように導き、優しい説得を通して、家族や社会や国のためにあらゆる善いことを行うように指導することです。
このつながりにおいて、親は子どもの扱いに大きなケアを発揮せねばならないことでしょう。
親が言葉で言うことではなく、本当に親がどうであるか、何をするかを、子どもは無意識、あるいは愛情をこめて吸収します。
子どもが世間に入っていく入口は、親の振る舞いを見習うことで形作られます。
善いことが善いことを生じさせ、悪いことが悪いことを生じさせるのは、当然のことです。
子どもと多くの時間を過ごす親は、その性格を微妙なところまで子孫たちの性格に伝えうつしていくことでしょう。


・親の義務


子どもの幸福に配慮することは親の義務です。
実際、親の本分を自覚し、愛情のある親は、喜んでその責任を荷います。
正しい道へと子どもを導くことにおいて、親はまず模範を示すべきで、望ましい人生に導くべきです。
立派でない親から立派な子どもを期待することはほとんど不可能なことです。
前世から引き継いだカルマによる傾向を除けば、子どもは親の欠点と美徳をいつも受けついでいるものです。
責任ある親は子孫に望ましくない傾向を伝えうつさないようにあらゆる用心をすべきです。


シガーラ教誡経(善生経)によれば、親によってなされるべき五つの義務があります。


1、第一の義務は子どもが悪いことをしないように思いとどまらせること


家庭は最初の学校です。そして、両親は最初の先生です。子どもは常に親から、善いことも悪いことも教育のイロハを受けます。
無頓着な親は直接にしろ間接にしろ、嘘やずるや不正直や誹謗や復讐や無知や、悪や不道徳な行為への恐れを知らない態度へのイロハを、幼年時代の間の自分の子どもに告げ知らせます。


親は手本となる振る舞いを示すべきです。子どもの多感な心にそのような悪徳を伝えうつすべきではありません。


2、第二の義務は善いことをするように子どもを納得させること


親は家庭において先生です。先生は学校において親です。親も両親も両方とも子どもの将来の幸福に責任があります。そして、子どもたちがどのような存在に仕立てられるかについての責任があります。
子どもたちがどうあるか、そして子どもたちが将来なるであろう状態は、大人がどうあるかによります。子どもたちは多感な時期の間、大人たちの生徒です。
子どもたちは、大人たちが告げ知らせることを吸収します。
子どもたちは、大人たちの歩みに従います。
子どもたちは、大人たちの考え、言葉、行いに影響されます。
そういうわけで、家庭と学校の両方において最も快適な雰囲気を生み出すことは、親のつとめです。


簡素、従順、協力、統一、勇気、自己犠牲、正直、まっすぐであること、奉仕、自己信頼、親切、貯蓄、満足、良いマナー、宗教的な熱心さ、その他のこういった類の美徳は、若い人々の心に徐々に繰り返し教え込まれるべきです。そのように植えられた種は、ゆくゆくはたわわな実のついた樹となることでしょう。


3、三番目の義務は子どもに善い教育を与えること


品格のある教育は、親が子どもに遺すことができる最良の遺産です。それよりも価値のある宝は存在しません。親が子どもに贈ることのできる最良の恵みです。

教育は、なるべく若い時から、宗教的な雰囲気の中で、子どもに与えられるべきです。
このことは、子どもの人生にとても大きな範囲の影響を及ぼします。


4、四番目の義務は親がぴったりの人と結婚していること


結婚は生涯全体に関わる厳粛な行為です。この結びつきはたやすく解消されることのできないものであるべきです。したがって、結婚は、結婚式の前に、全当事者を満足させるかどうかについて、あらゆる角度や側面から観察されるべきです。


仏教徒の文化によれば、義務は権利に優先します。両方の当事者は頑なになるのではなく、懸命な思慮を用い、友好的な和解に至るようにしましょう。さもなくば、お互いへの呪詛やそういった類の応酬となることでしょう。
病気の感染よりうつりやすいのは子どもへの影響なのです。


5、義務の最後のものは、適切な時に子どもたちに財産を譲り渡すことです。


親は、子どもたちの面倒をまだ見ている間に、愛し面倒を見ることだけでなく、将来の快適さや幸せのための準備もします。
親は個人的にはつらい事にも耐えて財産を蓄え、喜んで子どもたちにそれらを遺産として与えます。


・慈悲の宗教


仏教は慈悲の宗教です。親は子どもにそのようなプレゼントをすることを忘れるべきではありません。
仏陀はこの世界への慈悲のゆえに法(ダンマ、ダルマ)を教えました。子どもを育てる中で、親は、仏陀によって教えられた「四つの崇高な心の状態」(四無量心)を実践すべきです。


「四つの崇高な心の状態」(四無量心)とは、


慈(メッター) ― 愛情のこもった親切、善意
悲(カルナー) ― あわれみ
喜(ムディター)― 共感的な喜び
捨(ウペッカー)― 平静、あるいは「動じない心」


これらの四つの状態は、よく実践されれば、子育ての困難な時期を通じて親が穏やかさを保つことに役立つことでしょう。


これが、生きとし生けるものに対しての、正しく望ましい行為のありかたです。
これらの心の四つの態度は、社会との接触において生じるあらゆる状況のための枠組みを提供します。
この四つの態度は、社会のいざこざの中で、緊張を大きく緩和させますし、大きく平和をつくることに貢献しますし、生存のための争いにおいて受けた傷を大きく癒してくれるものです。この四つの態度は、社会的な障壁を平等にするものであり、調和あるコミュニティの建設者であり、長い間忘れられてきた眠ったままの包容力を目覚めさせるもの、長い間捨て去られてきた喜びと希望を復活させるもの、エゴイズムの力に対して人間の同胞愛を促進するものです。


結婚したカップルが直面しなければならない最も大きなチャレンジは、おそらく、適切に子どもを躾けることです。
これは、私たちを動物と区別する側面です。動物は、大きな献身をもって子どもの面倒をみますが、人間の親はそれよりも大きな責任があります。その責任というのは、心を育てはぐくむということです。
仏陀は人間が直面する最も大きなチャレンジは心を飼い馴らすことだとおっしゃっています。
子どもが生まれてから、幼児から青年期を通じておとなになるまで、親には子どもの心の発達に第一の責任があります。
人が、人の役に立つ市民になるか、あるいはそうでないかは、主にその心がどの程度まで成長してきたかによります。
仏教においては、良き親は、自らを支えるために、そして親の立場と密接な関わりがあることに関する大きなフラストレーションに打ち克つために、四つの偉大な徳(四無量心)を実践することができます。


子どもがまだよちよち歩きの頃は、自分に必要なことを表現できませんし、癇癪や泣き叫んでばかりになりがちです。
慈しみという第一の徳を実践する親は、そのような困難な期間に、自らの平和を保ちながら子どもを愛し続けることができます。
この慈しみの影響を受けている子どもは自然と自分自身も慈しみを四方に放つことを身につけることでしょう。


子どもが思春期となりより成長してきたら、親はカルナーつまりあわれみを子どもに対し実践すべきです。
子どもにとって思春期・青春期はとても困難な時期です。
子どもたちは成人期に達し、それゆえに反抗的になり、親に対して大きな怒りやフラストレーションを持つようになります。
あわれみの実践で、親は、この反抗は成長の自然な部分だということを、そして子どもは故意に親を傷つけようとしているのではないことを理解する事でしょう。
慈しみとあわれみを受けている子どもは、自分自身善い人間に成長することでしょう。自分をひどく嫌悪することもなく、子どもは慈しみとあわれみばかりを他の人に対してそそぐことになることでしょう。


おとなになる前に、子どもはおそらく、家の外における、いくつかの試験に合格したり、活動において成功したりすることでしょう。これは、親が共感的なよろこびを実践する機会です。
現代の社会においては、あまりにも多くの親が自分たちの子どもを人との競争に用いています。彼らは、子どもを利己的な理由で成功させようとするのです。自分が他人からよく思われたいことがその全理由です。
共感的な喜びを実践することによって、親は不純な動機を持たずに、子どもの成功や幸せを喜ぶことでしょう。
そうした親はただ単に、子どもが幸せなので、幸せなのです!
共感的な喜びの影響を受けてきた子どもは、自分自身、他人を羨まず、過剰に競争的にはならない人間になることでしょう。
そのような人は、利己心や貪欲や憎しみを心に持つことがなくなることでしょう。


子どもが大人の時期に達した時、そして自分自身の職業と家族を持った時、親は平静(ウペッカー)という最後の偉大な徳を実践すべきです。
これは、アジア人の親が実践することが最も難しいことのひとつです。
彼らにとって、子どもが独自に独立するようになることは受け入れることが難しいのです。
親が平静を実践する時、子どもの事柄に干渉しないようになるでしょうし、子どもが与えることのできる時間や注意をより多く利己的に要求することもなくなることでしょう。
現代社会における大人になりたての人々は、多くの問題を抱えています。
若いカップルに理解のある親は、若いカップルたちに不必要な要求をして余計な重荷を負わすべきではありません。
最も重要なことですが、年配の親は、結婚した子どもに対し、親孝行の義務を怠っていると感じさせることで、罪の意識を感じさせようとすべきではありません。
もし親が平静を実践するならば、親は老年期においても穏やかであり続け、それゆえに若い世代の尊敬を得ることでしょう。


親が子どもに対してこれらの四つの徳(四無量心)を実践する時、子どもは好意的に応答をし、楽しい雰囲気を家に広げることでしょう。
慈しみとあわれみと共感的な喜びと平静さが存在する家庭は、幸せな家庭となることでしょう。
そのような環境で育った子どもは、人の気持ちを理解できるように育つことでしょうし、思いやりのある、自発的な働き手、思いやりある雇い主に育つことでしょう。
これは両親が子どもに与えることができる最大の遺産です。


・現代の社会における親


現代の社会についての最も悲しいことのひとつは、高度に産業化された国々における親の愛の不足であり、そのことから子どもたちが苦しんでいることです。
カップルが結婚するときに、彼らは通常は幾人かの子どもを持つことを計画します。
そしていったん子どもが生まれると、親は能力の限りを尽くして子どもを育てる道徳的な責務を持ちます。
親の責任を見るにあたっては、子どもを物質的に満たすことだけでなく、精神的な、心理的な側面で満たすことを見ることもとても重要なことです。


親の愛や注意を与えることと比較する時、物質的な快適さを与えることは、副次的に重要なことです。
そんなに裕福ではない家庭で、子どもをたっぷりの愛情で良く育てている多くの親たちについて、私たちは知っています。
一方、多くの金持ちの家族では、子どもにあらゆる物質的な快適さを与えてはいますが、親の愛が欠如しています。
そのような子どもは心理的・道徳的な発達が欠けたままただ単に成長してしまうことでしょう。


母親は、働く母であり続けても、あるいは主婦であり続けようとも、子どもの幸せにすべての愛情とケアを与えることを注意深く考慮すべきです。
(不思議なことに、一部の現代の母親たちは、子どもを抱いてかわいがるべき時期に、そして子どもを、良い市民として、法を遵守する市民として躾けるべき時期に、銃やその他の破壊的な器具を扱う訓練を受けています。)


子どもに対する現代の母親の風潮や態度は、親に子が示すことが期待される、古来からの親孝行をも、むしばもうとしています。
哺乳瓶で育てることが母乳で育てることにとって代わったことは、母と子の間の愛情を減らすことを助長する別の要因ともなりえます。
母親が母乳で育て、赤ん坊を両腕で抱いてかわいがっていた時は、母と子の優しい情愛はずっと大きく、子どもの幸福に対して母親が持っていた影響力ははるかにはっきりしたものでした。
このような環境のもとでは、親孝行や、家族の結びつきや親に従うことは、必ず存在していました。
これらの伝統的な特質は、子どもにとって良いことであり、子どもの幸福のためでもあります。
子どもを扶養することができるかどうかは、親、特に母親次第です。
母親は、子どもが良く育つかわがままに育つかに責任があります。
母親は不良を減らすことができるのです!


・親のコントロールについて


多くの親は、結婚した子どもを自分のコントロールのもとに置き続けようとします。
そうした親は、当然の自由を子どもたちに与えず、若い結婚したカップルの人生に干渉しようとします。
親が結婚した息子や娘をコントロールしようとし、厳しく子どもたちの生き方を自分に従わせようとする時、そのカップルの間との不幸のみならず、二つの世代の間に多くの誤解も生みだすことでしょう。
親は子どもに対する愛情や愛着によって善意でそうしたことをする場合もあるかもしれません。しかし、そうすることで、彼らは自分自身と子どもたちに多くの問題を招いています。


親は、子どもたちが自らの人生と家族の責任を担うことを認めねばなりません。
たとえば、もしいくつかの種が樹の下に落ちたら、草木はそのうち成長するかもしれません。
しかし、もし元気に自由にそれらの草木を育てたいならば、それらの草木が親の木の陰によって妨げられないように、離れて成長できるどこか他の広い地面にそれらの草木を植えかえなくてはなりません。


宗教的な師や、賢い人々や、自分自身の試行錯誤を通してこの世界への知識を育ててきたお年寄りたちによって与えられたアドヴァイスに基づく、昔からの智慧を、親たちは無視するべきではありません。


・離婚について


離婚は異なる宗教に従う人々の間で論争となる事柄です。
ある人々は、結婚はすでに天において記録されており、したがって離婚を認めることは正当ではないと信じています。
しかし、もし、悲惨な人生を導き出すことなくしては、より嫉妬や怒りや憎しみをより持つことなしには、夫と妻が本当にともに生きることができないならば、彼らは別れて平和に生きる自由を持つべきです。


・子どもに対する責任


しかしながら、カップルの離婚は、納得のいく解決の採用と、より憎しみを生み出さないようにすることで、理解のある雰囲気の中でなされなけれなりません。
もしカップルが子どもを持っているならば、子どもにとってより心の傷とならない離婚にし、新しい状況に子どもが適応できるように助けるべきです。
そして、子どもの将来と幸福のための世話を確約することが最も大事なことです。
もしカップルが子どもを放棄し、悲惨な人生に子どもが導かれるのをそのままにするならば、それは非人間的な態度です。


仏教徒の見解


仏教においては、もし夫婦がともにむつまじく生きることができないならば、夫と妻が離婚すべきではないと主張するいかなる規則もありません。
しかし、もし人々が、お互いに対する義務を実行することについての、仏陀が与えたアドヴァイスに従うならば、離婚や別居のような不幸な出来事は決してそもそも起らないことでしょう。


過去において、宗教的な価値がとても尊敬されていたところでは、お互いへの尊敬と愛情と考慮に基づいた幸せな関係を育てるための仲の良い理解に達するために、西洋でも東洋でも、結婚したカップルの一部に今よりも大きな努力が払われていました。
カップルは、自分たちの結婚に、心において慈しむという重要な特質を育て、つくりあげていました。
離婚するケースはとても稀で、離婚は一方の当事者か他方の当事者の利己性を示しているという理由で不名誉なこととみなされました。


実際、仏教徒の国々では最近まで離婚するケースはむしろ稀なことでした。
このことは主に、カップルがお互いに義務と責務を考慮していたことによりますし、また離婚は基本的にコミュニティによっておおむね是認されなかったことによります。
多くのケースにおいて、結婚したカップルがトラブルのもとにある時、コミュニティの長老たちがたいてい集まってきて、状況をよくするために重要な役割を果たしました。


不幸なことに、今日の現代社会においては、離婚はありふれた実践のようになっています。
ある国々では、離婚は流行でさえあります。
離婚を恥や自分たちの人生を整えることの失敗とみなすのではなく、一部の若いカップルは誇りにしているようです。
現代社会において、結婚における失敗の主要な原因は、自由の乱用と、パートナーの一方の過剰な独立や個人主義です。
独立した生活にも制限がなければなりません。さもなくば、夫も妻も両方ともたやすく身を誤まることでしょう。