現代語私訳『福翁百話』 第三十七章 「やむをえない場合は子どもを人に託す」

現代語私訳『福翁百話』 第三十七章 「やむをえない場合は子どもを人に託す」


子どもに対する教育は、父親と母親の両親の責任であり、その責任を逃れるべきではありません。


責任を全うするための方法としては、まずは家の雰囲気を良くすることが根本で、智恵や道徳を高める習慣を養い、日夜注意して子どもの智恵や道徳の発達を助けることです。


家の雰囲気が良くないのに子どもに良く育って欲しいと思ったり、智恵や道徳の発達への注意がおろそかなのに子どもの精神が活発であって欲しいと思うことは、泥の中に飛び込んで身体が清潔であって欲しいと思ったり、耕すことを怠りながら苗の成長を求めることと同じです。


そもそも土台無理な注文なのですが、しかし実際にいろんな人の家庭の様子を観察してみると、皆が同じように良い家庭の雰囲気を持つことができているわけではなく、時として場合によっては親の道徳や振る舞いがろくでもなくて家の雰囲気が不潔な場合もあれば、たとえ親の品行は正しくて優美であっても不幸にして病気で苦しんでいたり、あるいは仕事が忙しくて家庭を顧みる暇がなく、子どもに対する世話が行き届かない場合もあります。


さらに、不幸な場合は、両親の片方を失った家庭の子どもが、先妻の子どもと後妻の子どもと一緒に暮らすようになったり、あるいは一家の大黒柱の夫を失った女性が子どもを大勢抱えているような場合がしばしばあります。
ましてや、両親が両方とも早く世を去って、家庭が本当に真っ暗な場合はいかほど不幸なことでしょうか。


これらの場合はどれも子どもの養育には実に不適切な状況なので、このような場合には、家計が貧しい場合は仕方がないとしても、少しでも家に財産があるならば、そのお金を使って誰か他の人の力を借りることが大事なことでしょう。


もともと、家庭で子どもを養育してうまくいくという状態は、両親が両方ともそろって健康で無事であって智恵や道徳などが十分備わっていて、家族の生計に不自由がなく、仕事もそこまで忙しすぎることがなく、朝夕の子どもの睡眠や食事や言葉や行動を観察する余裕があって、はじめて望むことができるものです。


しかし、今の世の中は忙しく、また突然の不幸なども予測できない無常な世の中ですので、そのような良い環境はなかなか得ることが難しいのが通常です。
ですので、完全な子どもへの養育はすでに望むことができないので、誰か他の人に依頼しようと、もし決心したならば、その依頼の方法についてよく考えるところがなくてはなりません。


このことは、全く各自の経済的な状況によるもので、家計が余裕がない人は、子どもを住み込みの学校などに任せる以外仕方ありません。
しかし、学校などに住み込みで子どもを預けることは、たとえるならば大勢の人が入っている銭湯に入るようなものです。


銭湯の入場料は安いものですが、その代わりに不潔で混雑もひどく、快適ではないものです。
ですので、もう少し地位や経済的余裕がある人は、自分の家に立派な浴室をつくるのが普通です。


ですので、子どもに対する教育も、自宅の浴室と同じで、家庭教師を雇って自分の家で教育をさせるという方法もあります。
あるいは、先生の中で雰囲気や気風の良い人を選んで、自分の家に下宿させるという方法もあります。
そのように、誰か他の人を雇って、子どもの食事や睡眠なども教育もすべてその先生に任せるか、あるいは、その先生には道徳や智恵の教育を専ら任せたり、あるいは子どもの睡眠や食事などの世話のみを見てもらったりする方法もあります。
そして、勉強や読書などのみ学校に通学させて学ばせるという方法もあります。
あるいは子どものために特別に自宅の敷地の中に一軒の家をつくって、最もすばらしい先生をこの家に迎えて生活や給料を与えて、その先生の家族の生活を豊かにしてあげて、ちょうど自分の家の中に一つの私塾を開いてもらって、他に性格や素質がすぐれた、子どもにとって良い友人となるような子どもがいれば、その子もともにこの塾に入れて自分の子どもと一緒に学ばせるという方法もあります。
あるいはこのようにしていては社会での人付き合いに疎くなる心配もあるので、さまざまな注意をしたうえで学校に通学させて子どもを勉強させるのも良い方法でしょう。


とにもかくにも、すぐれた先生となる夫婦が、全力を尽くして、体育、道徳教育、知育の完全な教育を目指すならば、子どもにとって実の父母を離れて第二の父母を得るような状態であり、銭湯と同じような寄宿学校の教育よりも優れていることははかりしれないことでしょう。
もっとも、そのようなことは、大金持ちであってできることですが。