現代語私訳『福翁百話』 第三十八章 「子どもの教育費にけちであること」

現代語私訳『福翁百話』 第三十八章 「子どもの教育費にけちであること」



人間の社会の習慣というものは簡単には消滅しないものです。


昔、日本がまだ封建社会だった時代には、教育といえばただ武士階級の人々だけに一般的には限られていました。
また、武士の子どもたちが手習いや学問、あるいは武芸の指南を受けるのも、やはり武士の家系の人からに限られており、その先生はもともと藩において代々の禄をもらっている武士であり、べつに教育によって生活しているわけではなかったので、ついぞ月謝や謝礼などのことを問題にすることなく、年末に弟子たちが多少の品物かお金をほんの寸志として持ってくるだけであり、二朱銀の銀貨たった一枚によって仁義礼智信の道徳を学び武芸の極意を教えてもらうことができると、当時の事情を指して言われたものです。


ですので、日本の教育は、昔からほとんど無償のものであったわけで、その習慣は国民一般の骨髄に徹しており、今日に至っても、家庭の父母たる者たちが、自分の子どもの教育のためにお金を出すことを、あたかも余計な散財だとして惜しむ感情を持っています。


しかしながら、これらの父母たちが必ずしも本来けちであるというわけではありません。
教育費以外の衣食住などの生活費についてはそれなりの費用を惜しまず、場合によっては贅沢をしたりしています。
庭に植える樹や庭に置く石に大金を費やしたり、書や絵画や珍しい骨董品にそれ以上の大金を投じて平然としています。
なのに、それとは反対に、子どもには寄宿学校に寄宿させたり、あるいは通学させて、わずか四万〜六万円(原文では二、三円)ぐらいの月謝代を支払うだけです。


もしも今、どこかの学校で一か月の授業料が四十〜六十万円かかると主張する者があれば、世の中の父母たちは目を回して驚くことでしょう。
不必要な趣味には大金を使いながら、大切な愛するわが子のためには四十〜六十万円を出し惜しむという姿は、まともな計算がされていないだけではありません。
その庭園や書や絵画や珍しい骨董品や、それらをはじめとした巨万の財産は、自分が死んだ後、いったい誰に守らせようというのでしょうか。
本当は目指すところはただそれらを相続する自分の子どもにこそあるのであって、その子どもの教育にはお金を出し惜しみ、精神や身体の発達を十分に伸ばさせることができず、結局はその子どもが家を破産させてしまうことも考えることができないということは、いったい無分別でなければ何だというのでしょうか。


本当に言語道断であって、本当に驚くべきことのようですが、結局その根本の理由を尋ねるならば、昔から子どもの教育にはお金を使うという必要を知らなかった日本の習慣に養われて、今日もなおその古い考え方を脱け出すことができていないためです。


このことは、つまり、日々に進歩する現代文明の中にありながら、子どもへの教育の方法だけが十分に新しくなることができていないということです。
この理由こそ、金持ちであっても特に家庭教師を雇うこともなく、人が世の中において塾を立ち上げても、生徒からほんの少しの月謝を集めるだけで、常に塾の維持のための方法に苦しんでいることの理由でしょう。
見ていて耐え難いものですが、時の運がちゃんとやって来ることを待つより他に方法がないことです。