現代語私訳『福翁百話』 第三十六章 「日本の男尊女卑の弊害は主に外面的なものです」

現代語私訳『福翁百話』 第三十六章 「日本の男尊女卑の弊害は主に外面的なものです」




日本の女性には権利や権力がないと言われます。


この言葉はたしかにそのとおりです。
男性と女性が家に一緒にいる場合、女性は、ある部分においては、本当に卑屈な態度をとるようにさせられていて、いつも男性の下にいるように見えます。


しかし、また別の方向から見てみる時は、他の人が窺うことができないところで、自然と、女性の権利や権力はけっこう大きなところがあります。
外国の人や、あるいは日本国内の人でもあっても、そのことはともすれば軽く見過ごされてしまっていることなので、念のために一言言っておきたいと思います。


日本の女性が男性に対して卑屈だというのは、その外面的な形の上ではひどい事例を見ることもありますが、内実の本当のところを見ますと、外面のようにひどくないだけでなく、場合によっては女性の権利や権力は強く大きなもので、十分に大きな力を振るっている場合もあります。


ことわざの「牝鶏(ひんけい)晨(あした)す」(めんどりが鳴いて朝を知らせる)や、いわゆる女大将・女将軍という言葉もあるように、そのような人が、夫をないがしろにしたり軽んじて、自分が力を専ら振るうようなことも、例外的なものではありますが、しばしばあります。


また、そのような例外とは異なり、ごく普通に、家族において母親が子どもに対して持っている権力は、ほとんど無限であり、どのような男性も母親の意見には従わざるをえず、逆らう場合は親不孝な子どもだとして社会から許容されないのが常です。


こうした事例を、西洋諸国の習慣と比較すると、日本の女性の権利や権力には一種の特色があることが観察されると言えます。


また、日本の女性は、まだ母親になっておらず、夫に仕えることになっている期間でも、ただ外面的な礼儀において従順であったり卑屈なふりを示すだけで、その内実においては、女性が自分で家のことを左右し、夫は必ずしも主な力を持つことができない状況があります。

たとえば、ビジネスの取引において、取引先の相手の身元を探る時、妻である人の人柄や性格がどのようなものかは最も大切なことであり、妻である人が確かな人ならば、その人に仕事を依頼したりお金を融資したり商品を貸借することを決めることは、ビジネスの世界では珍しくないことです。
実権がどこに存在しているのか、この事例によっても窺うことができます。


また、夫と妻が出身地を別にしており、そのため衣服や食事の習慣が違っている場合、家の習慣はどちらの側になるかというと、たいていすべて妻の意向に従うのが常のようです。


季節にあわせた衣服の選び方や、食べ物の味付けの濃さや甘さ辛さなど、いつの間にか妻の好みのままとなり、子どもはもちろん、夫も知らない間に妻の好みに服従しています。
こうした事実を列挙すれば枚挙にいとまがないものです。


要するに、日本の女性は男性に対して卑屈な態度をとらされたり、権利として下の立場に置かれていることは、たしかにそのとおりなのですが、実際の男女の力関係は外面的に見えるもののようにひどくはなく、事と場合によっては、その実際の力関係はかえって西洋の女性よりも日本の女性の方が強い場合もあります。
ですので、女性の権利を論じる人も、とくとこのあたりの事情に注意して、みだりに日本の女性の権利が弱すぎると騒ぎ立てることをやめて、ストレートに男女の力関係や実権のありかたを争うよりも、まずはその外面的なことについてのみ改良を目指すことにして、日本の女性に本来備わっている優美さはそのまま大切に残しながら、男性の側から女性に対して接する態度やマナーをもっと和やかなものにするようにし、男尊女卑の男尊の方を引き下げて自然に同等の形にしていき、外国の人から見ても見苦しくないような外観をなしていく工夫が大事だと思います。


たとえば、夫婦の間でも言葉づかいを丁寧にして礼儀を大切にし、妻を呼ぶ時も名前を呼び捨てにせず「〜さん」と言ったり、手紙を送る場合も言葉を横柄に書かずに宛先も「〜殿」と書かず「〜様」と書くようにすることなど、何の妨げもないだけでなく、このようにすれば夫の重みを損なうかというとそんなこともなく、かえって家の雰囲気が優美で品格があるものになる助けとなり、子どももおのずからこうした雰囲気を見習って、家の中にも次第に粗野な様子は微塵も無いようになっていくことでしょう。


そもそも、人の心の間違いを正すことは難しく、外面的な形式を改めることは簡単です。


日本の女性の権利や権力が不振なことは、主にその形式面にあって、内実はそうではないので、改めることは決して難しいことではないのです。