現代語私訳『福翁百話』 第五十九章 「あんまり裏の裏まで観察することは人付き合いの仕方ではありません」

現代語私訳『福翁百話』 第五十九章 「あんまり裏の裏まで観察することは人付き合いの仕方ではありません」



「水が清すぎると魚は住むことができない」と言います。
魚のためには、あまりにも汚れた水は本来は全然良くないものですが、かといってあまりにも水が澄み過ぎると姿を隠すのに都合が悪かったり、あるいはエサが乏しくなってしまい苦しんだり、ともかく魚は少しばかり濁ったところを好むようです。


さて、人間はどのような生き物と問うならば、今の現代文明のレベル程度では、智恵も道徳も完全な人はいないことでしょう。
国家社会のことを心配して誠心誠意一点も自分の利益を考えていないと主張する政治家や活動家なども、その裏側の心を観察するならば、自分の個人的な生活の道徳は修まっておらず、金銭的な生計も成り立たず、家庭の中は荒れて、借金の不義理を重ねて言い訳もできない事例もあります。
学生が自分の身の不遇を嘆いて貧しさを訴えながら、個人的な生活の内実においては、その前の晩には他人から借金してそのお金で風俗で遊び、次の日の朝には権力者のところにあいさつに行って立身出世の道を求めたりしている事例もあります。


本来無一物、何も持たずにいるはずの仏教の僧侶が、高い金利でお金を貸し、帳簿を開いてお金の計算ばかりしている事例もあります。
キリスト教の信者が、教会で日曜日の祈りを終えたあと、家に帰るとすぐに夫婦喧嘩を始めて、隣近所の人をその仲裁で煩わせることもあります。


あるいは、そこまでひどかったり体裁が悪かったりしなくても、それぞれの人の持って生まれた性分や習慣によって、場合によってはお酒を飲むことをコントロールできず、飲めば少しばかり酔っぱらっておかしくなる人もいます。
あるいは、容姿に不似合にお洒落な服装を好み、家では粗末な食事をしながら、流行に凝ってファッションに大金を使う人もいます。
あるいは、多くしゃべる中で失言が多く、毎回恥をかいて赤面する人もいます。
あるいは、寡黙で、心の中では喜びながらも顔の表情に笑顔を表すことができない人もいます。
むやみにぺこぺこと頭を下げる人がいれば、ウドの大木のように突っ立ってお辞儀をすることを知らない人もいます。
これらの事例は、そもそも人それぞれが持っている癖とも呼ぶべき事柄であり、深刻に非難する必要があるものではありませんが、その人の欠点として認識されることはやむをえないことです。


ですので、その欠点の大小の違いはあるとはいえ、十人は十人、百人は百人、大きな欠点か小さな欠点か、すべての人はなんらかの欠点を持つ身であり、智恵や道徳が完全な人間はほとんど一人もいないことでしょう。


このように欠点だらけのこの世界において、自分もまた多少の欠点を持っている身でありながら、自分ひとり他の人々を目を光らせて観察し、他の人々の欠点を明らかにして摘発しようとする心でいる人がいれば、たとえそうだとははっきり口に出して言わなくても、人はその観察者の顔を見たいと思ったり近づきたいとは思わず、その観察者の目がますます鋭くなればなるほど、その観察者に対してますます不愉快を感じることでしょう。
その様子は、ちょうど、自分自身の姿かたちや服装に自分で満足できない女性が、鏡に向かってひとり自分で心を痛めている様子と同じです。
心を持たない鏡に対してさえそうであるのに、ましてや心を持っている人間に対して、その人が鋭い観察眼を持った鏡のようである場合は言うまでもないことで、お互いに近づきたいと思ってもできないことです。


社会の上流階層の先生や紳士であって、知識も才能も両方ともにひときわ目立ってすぐれており、非難すべき点がほとんど一つもない程の人物でありながら、どうも本当の親友がほとんどおらず、人間関係の範囲が狭い人がいます。


その原因はいろいろあるのでしょうが、その先生が自分の鋭い頭脳に任せて他人の話を冷淡に聞き流すだけでなく、ともすれば利益もないことまで他人の欠点を論じ、寸鉄人を殺す毒舌を吐いて、ちょうど無益な殺生をしているようなことをしているからで、このようなことは人とのコミュニケーションにおいて一つの大きな欠点としてカウントせざるを得ないことです。


立派な人物のコミュニケーションにおいては、度量広く小さなことにこだわらず、場合によっては、思ったままに口に出したり深く考えずに発言したり、ののしったり叱り飛ばしたりすることも差し支えないとはいえ、その思ったままの発言やののしりはすべて空砲にすべきで実弾を込めるべきではありません。
言葉の中に少しでも実弾を込めて、鋭い観察眼によって他の人の欠点や弱点を狙撃すれば、散弾の玉が小さくても苦痛を与えることが大きいものです。
ですので、たとえその人の欠点や弱点がどこにあるかを知っていてもそれを改めさせるのは別の手段で行うべきで、気長に思いやりを持つところがなくてはなりません。
水が清らかすぎると住める魚はいなくなります。
観察眼が鋭すぎると人には友人はいなくなります。
人間には、友人を許容する包容力を広く持ち、ちょっと漠然としているところがあることが必要です。