現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第五章 「交際する友人をよく選ぶ」

現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第五章 「交際する友人をよく選ぶ」




「友人」というのは自分の連れ・仲間ということであり、それを「選ぶ」というのはその中でもより分けるという意味です。
自分の同級生や同じ故郷の人や、同年代・同期の人が、自分と交際してくれるならば、どれも大切にすべきです。
しかしながら、その中に、悪い友(損友)と善い友(益友)とがあります。ですので、選ぶということは重要なことです。


悪い友に対しては、自分が修めた道徳によって、その人の間違っていることを正し直してあげるべきです。
善い友に対しては、自分から親しくなることを求めいろんな話をし、いつも兄弟のようにすべきです。世の中に善い友ほどありがたく、得難いものはありません。一人でも善い友がいるならば、大切にすべきです。


一般的に友人と交際することにおいては、飲みに行ったり食事を共にする上での付き合いや、どこか遊びに出かけたり釣りなどで馴れ親しむことは必ずしも適切ではありません。
学問を論じあい、武術を練習し、武士としての志を磨き、心のありかたを吟味することからの交際をこそ受け入れるべきです。
飲みに行ったり食事を共にしたり遊びに出かけることで馴れ親しんだ友人は、普段の生活では手をとりあい肩を叩きあい、お互いに俺のことをよく知っている親友だと呼び合っているものですが、平和な時には自分の道徳を補い高めるためになりませんし、非常事態において自分を助けてくれる人ではありません。
ですので、そうした友人は、なるべくあまり頻繁に会わないようにして、自分の身を厳重に守って付き合い、馴れ親しんで自分の道が堕落しないように必ずし、なんとか工夫して、その人を正しい道に導き、武術や学問の事柄を勧めることこそ、友としての道というものでしょう。


一方、善い友というのは、とかく気を使うものであり、時折面白くないこともあるものです。そのことはよくよく理解すべきです。
善い友が自分の身を補ってくれるというのは、その気を使うというところにすべてあるわけです。
「武士は、言い争う友がいてくれれば、自分が道を失いがちでも名誉を失わないで済む。」という意味の言葉が古典の中にあります。
言い争う友とは、つまり善い友のことです。
自分の間違っていることを告げて知らせてくれ、自分を厳しく批判してくれるからこそ、自分が気の付かない落ち度や欠点を補っていくことができるのです。
もし上記の善い友が自分にさからう意見を述べることを嫌う時には、王侯の身分の者が、諌めてくれる臣下を疎んじるのと同じであり、ついには法律に違反して刑罰を受けるような事態や、予測できない災いを招いてしまうこともあることでしょう。


善い友を見分ける方法は、その人が正義感が強く剛毅で真っ直ぐであるか、穏やかで良い誠実な性格であるか、豪快で決断力があるか、俊敏で聡明であるか、大らかで度量が広いか、この五つの観点以外にはありません。
これらはどれも気を使わなければならないことが多い人であり、世の中の人たちがひどく嫌がるようなタイプの人たちです。
それに対して、悪い友というのは、よくへつらい、追従や迎合を旨としており、軽くて目ざとく、そそっかしくて粗雑な性質の人です。これらはどれも、気安く接しやすい人であり、世の中の女性や子どもも、その才気や物腰を誉めるものですが、哲学者や紳士、英雄や豪傑のような人間になりたいと思う者は、友を選ぶに際しておのずから選択するところがあるべきです。