御同行のKさんのこと

今日、ひさしぶりにK寺に御聴聞に行って、御同行のOさんに会ったら、Kさんがお亡くなりになったと聴いてとても驚いた。
もう最近のことではなく、いっとき前になるとのことだった。

Kさんはたしか80ぐらいのお年ではあった。
とても良いおばあさんで、F市の仏教婦人会の会長を以前は長く務めておられたそうである。

私が浄土真宗のお寺に御法話を聴きに行くようになって、一番最初に話しかけてきてくれたのがKさんだった。
いつもお念仏の声が大きくて、御法話の最中でもよく大きな声で御念仏を称えておられた。

F市内のいろんなお寺に行っても、たいていKさんは来ておられて、会うと、「兄ちゃん、よく来たなあ」と話しかけてきてくださった。

今宿にあるT寺に、私はご縁にあったことがないけれど、むかしとても御法話が上手なお坊さんがおられたそうで、Kさんは若いころからよくT寺にそのお坊さんの御法話を聴きに行かれたそうである。
若くして旦那さんが亡くなられたが、T寺のそのお坊さんの御法話にずいぶん救われたと、一度しみじみと語られていたのを聞いたことがあった。

Kさんは身寄りがなかったそうで、Kさんの御取次ぎのお寺だったJ寺が最後はすべて看取って御葬式も何もかもしてくださったそうである。
J寺さんの優しさにも胸を打たれるが、Kさんが生前どれほどJ寺やF市の浄土真宗のいろんなお寺に尽くされていたかを考えると、Kさんの長年の徳があればこそだったようにも思える。

眼鏡の奥の目が、とても賢そうで、慈悲深い目をした方だった。

浄土真宗では、仏法聴聞を長年重ねて、在家であっても類まれな境地に達した念仏者を「妙好人」と呼ぶ。
Kさんはまぎれもなく妙好人だったと思う。

以前、深川倫雄和上が、「風は見えないが、稲の田んぼの上を風が通ったあとは稲穂がそよぐので見える。そのように、仏法の働き、本願の念仏の働きは目には直接は見えないが、それによって育てられた御同行を見れば、その働きが見える。なので、念仏はひとりで称えたり、お経をひとりで読むのではなく、それはそれで大切だけれど、こうやってお寺に参って、御同行の背中を見て育つのが大事」ということをおっしゃられていて、KさんやOさんやその他の妙好人のおばあさんたちのことを思えば、本当にそのとおりだと思ったことがあった。

Kさんのような妙好人に出逢えて本当に良かったと思う。
今度J寺に行った時に、お墓の場所を聞いてお参りしよう。


南無阿弥陀仏