現代語私訳『福翁百話』 第八十七章 「田舎の人が必ずしも正直な特徴を持つというわけではありません」

現代語私訳『福翁百話』 第八十七章 「田舎の人が必ずしも正直な特徴を持つというわけではありません」


田舎の人は実直で正直で子どものように純真で愛すべき存在であるとは、世の中の人が常に言うことです。
実際にも、そのような様子を見ることができます。


しかし、一歩下がって、そうした物事の裏側を観察するならば、その実直さや正直さはただ田舎で生活している間のことであり、その田舎の人が都会の忙しい雑踏に出てくれば、さまざまな無数の事情の中で擦り減って、だんだんと横着な人間になってしまい、場合によっては、田舎から都会に出てきた人の方がもともと都会にいる人より、おかしな策略をめぐらしたり、おかしな悪いことをしでかすことが多いと言われます。


ですので、田舎の人の善さというのは、本来的に田舎の人に特徴として備わっているものではなく、田舎に住んでいるという一種の環境や状況によって善くなっているだけのことで、それほど深く感心する必要のないという事実は、人間が子どもの時は無邪気であって、年齢とともにだんだんと煩悩が増えていくことと同じことです。
石川五右衛門のような大盗賊も、二、三歳の時にはきっと純真で無邪気な子どもだったと推測しても間違いはないことでしょう。


さて、田舎の人がなぜ実直で正直かといえば、第一に、地方の生活は簡素で質素なものであり、人間の欲望を誘うものが少ないのと同時に、その社会の範囲が非常に狭く、わずかな一言や一つの行為も、すぐに地域の人々が知ることとなり、誰それは誰それのお金をいくら借りてまだ返していないと言われたり、誰それはどこどこのあぜ道で財布を拾ったそうだと言われ、あの男は隣の畑の芋を盗んだ、隣村の林をひそかに伐採して盗んだ、夜になる前から酒を飲んでた、今朝は団子を食っていた、あの家の夫婦喧嘩はこんな様子でお寺の和尚さんが仲裁した、などと伝わるのが早く詳細であることは手のひらを指さすようなものです。
このようなわけで、善いことを善いこととし、悪いことを悪いこととするのは人間の自然な本来の心であり、少しも道理からはずれたことを許さず、四方八方があたかも警察のようなものですから、このような地域社会において悪いことをしようとすればすぐに人に見捨てられて身の置き所がなくなります。
これがつまり、田舎の人がわりと正直であるということの理由です。


しかし、この正直な田舎の人がいったん都会に出れば、数多くの家々も皆見ず知らずの他人であり、その目や耳を逃れることは簡単で、だんだんと都会に住み慣れるにしたがってだんだんと肝っ玉も据わってきて、人が思いもしないような変なことや悪いことをしながら、全然恥ずかしいとも思っていない人も多くいます。
私は、このことに対して、田舎の人が都会の悪い雰囲気に誘惑されたということだけを言うのではなく、むしろその人の持って生まれた性質が現れたと批評しています。


ですので、都会の人も田舎の人も、人間の善し悪しというのはだいたい同じようなもので、田舎にいれば善いものだと決まっている以上は、人間の社会を一般的に田舎のようにする、あるいは子どものようにするのはどうかという主張があります。
ただ単に一つの説というだけでなく、昔から多くの道徳や思想を説く人々が熱望することであり、何らかの議論をする端々には田舎の人の素朴さや正直さを称揚し、子どもの無邪気さを説いて大人の手本とすべきだと持ち出しています。
しかし、どうしようというのでしょうか、文明の世界の経営は田舎の人に依頼することは出来ません、子どもに任せることはできません、道徳や思想を説く人々もいつも口には主張しながら現実には戸惑っている程度の人ですので、私はさらに一歩を進めて、人間の心が素朴で無邪気であるべきだなどという消極的な道徳論を言わずに、ただまっしぐらに人間の智恵や知識を進歩させ、智恵を高度に発達させることによって醜悪な振る舞いや行為を制止させたいと思います。


善いことを好むのは人の持って生まれた性質であり、間違いのないことです。
この事実を知りながら、それでもなお悪いことをするのは、結局その人が無知であるからこそです。
ですので、善悪について表も裏もその関係を明らかにして人を導くならば、文明の進歩という現実に背くことなく、道徳の進歩も伴って進んでいくことでしょう。
このことを第一の根本として、手近な手段としては社会の交通の方法に心を用い、今でいえば海や陸の蒸気船、蒸気機関車、郵便、電信、電話などはもちろんんこと、著作、新聞の発行を自由にして、その流布を速やかにし、少しでも社会に起こったことはどんなにさまざまなことでも細大漏らさず、人間の家庭生活や社会生活、わずかな一言やひとつの行為も、道徳や教育に妨げがない限りは報道してあちこちの人の耳や目に触れさせ、その明らかな観察眼はちょうど片田舎の村の人々が村の中の出来事を知るような状態になるならば、醜悪な行為をなくすための方法としてきっととても力があることでしょう。


現在の、不完全な交通や流通のありかたであっても、すでにいくばくかの効果がないわけではありません。
世界の将来は今よりも十倍百倍と便利に自由になるでしょうから、その時は、単に交通や流通のひとつの手段だけでも、大いに人間が悪いことをしようとする心を制止させるのに十分になると、私は断固として信じています。