現代語私訳『福翁百話』 第五十四章 「善いことばや善い行為の実践について」

現代語私訳『福翁百話』 第五十四章 「善いことばや善い行為の実践について」



世の中のいわゆる道徳家が「善いことばや善い行為」などと呼んで、昔の時代のことばや行為の事例を集めて、本に書いたり講演で説いたりして、そのことによって人々や子どもたちに教えることはとても良いことです。


しかし、その「善いことばや善い行為」の事例の八割ないし九割は、君主への忠義や親への孝行のことばかりです。
しかも、その忠義や孝行の話は、直接的に君主や父親の身の上にふりかかった重大な出来事に際して、家臣として、子どもとして、その本分を尽くしたというような、いかにも切迫した事例の話で、しかもその辛酸や苦労の度合いをもってその忠義や孝行の心の篤さを判断するもののようです。
少しも感心できないことです。


そうした事例における、いわゆる忠義の家臣というのは、動乱の時代か、そうでなければ横暴な君主のもとに現れるもので、孝行な子どもというのは、たいてい極貧の家に生まれるか、あるいは悪い父母に仕える事例であり、社会全体のためには非常に善くない事例ばかりです。


その当人である忠義な家臣や孝行な子どもはたしかにとても感心するものではありますが、一般的に人間の世界の平均的な移り変わりの様子は、動乱の時代よりも平和な時代の方が長いものですし、横暴な君主もそんなに連続して現れるものではありません。
また、『二十四孝』(中国の歴史上の格別親孝行な事例を二十四例集めた書物)のような、極端に不幸な家ばかりの場合も、まずもってめったにないと言えます。


ですので、道徳論者が常に心酔している忠義な家臣や孝行な子どもの辛酸や苦労の話も、人の世の中に絶対にないとは言いませんが、家庭生活や社会生活の基準として子どもや若者に教えるのは大きな間違いです。


たとえば、医学において第一に最も重要なことは、身体の現象を明らかにして健康のための養生や注意を命じることにあります。
場合によっては外科手術が必要な場合もありますが、その範囲はもともと狭いものです。
ですので、この外科手術ひとつで医学のすべての領域を覆うことはできないものです。
しかし、極端な忠義の家臣や孝行な子どもの事例で人間世界のことを教えるのはそれと同じことです。
人間の生き方において、たった一人で尽くす忠義や、この上ない孝行における困難や辛酸や苦労は、そうした場合もないわけではありませんが、言うまでもなく非常に稀な不幸な場合に際してそうであるだけのことです。
社会の通常の状態でないことは、事例の数からして疑いないことです。


それなのに、今、この忠義や孝行の通常ではないものを基準にして人々の普通の生き方を指導しようとすることは、外科手術一つであらゆる病気を治療しようとすることと同じようなものです。
仮にも知識人や学識ある人々がまじめに口にして説くべきことではありません。


ましてや、忠義や孝行のあまりにも激しい事例は、全くもって口にして説くべきことではないことでしょう。
熱心さがあまりにも激しい度合いに達する時は、物事の利害を度外視して、あまりにも極端に逸脱する事例がとても多いものです。
子どもや若者の教育には特に用心して、忠義や孝行について教える時も、人間の物事における一つの大事なこととして、心の奥深くに収めさせるようにし、何らかの実際の出来事に直面した時に、ことさら傍から言ったり語ったり促したりせずに、自然とそのような心が起こるような工夫をすることこそ最も必要なことです。


なお、ましてや、文明社会における営みは非常に多くの事柄に渡っており、人間のなすべきことは一つではありません。
忠義や孝行に似ているようで、文明社会においてかえってなんらの効果もあげず、逆に、忠義や孝行とは自覚しない行為において、文明社会で大きな成果をあげることも多いものです。
子どもや若者が、天皇に忠誠を尽くすだとか愛国だとか唱えて、むやみに国家社会のことをあげつらっては家庭生活を少しもきちんとしないようなことは、社会のためには少しも利益とならないことです。
そのような者で、しまいには父親や母親にまで迷惑をかける者もいます。
ですので、生まれつき素直な子どもが、別に特に専門の学問や技芸があるわけでないとしても、自分できちんと働いて自分で生活するという人として守るべき道義を忘れず、コツコツと努力してよく自分の生計を成り立たせ家庭を築き、家計も徐々に余裕が出てくるようになるならば、父母の心身も安心なもので、その家の財産に応じた税金をきちんと納めれば国家財政の一部分ともなり、ことさら忠義とも孝行とも言い立てなくても、自然に忠義で孝行な人もいます。


西洋のことわざに、「空き樽は音が高い」(中身のない空っぽの樽を叩くと高い音を立てるように、声高な人は考えが浅いという意味)という言葉があります。
私は、忠義や孝行を声高にしゃべって空き樽のようになるよりは、黙々として忠義や孝行の実際の中身があることを望むものです。