現代語私訳『福翁百余話』第九章 「独立した人が持つ忠誠心とは」
人間として、自分が動物とは異なっていると知り、人間の精神はとても気高いもので、
人知でははかりしれない大変すぐれたものであることを自覚して、人間が本来尽くすべきつとめに心を落ち着けるならば、人知でははかりしれないすぐれた人間の心が起こります。
その時は、たとえ自分では意識していなくても、その人の心は君主への忠義や親への孝行という教えの主旨に間違いなく適合し、その人は正真正銘の忠義な臣下や親孝行な子どもであることは間違いありません。
このことを、独立した人が持つ忠義や孝行の心と言います。
たとえば、ひとつの国が、君主制をとり君主を戴く本来の理由を尋ねるならば、君主を社会の公心の中心点として、不完全な国民の心が落ち着く一点を設けるための必要としてできたことです。
(場合によっては、君主を立てない共和制の国もあり、その場合は憲法を君主の代わりとしています。国民の心が落ち着く一点を設けるという意味では同じことです。)
ですので、君主の地位は簡単には動かすべきではありません。
時代の成り行きが場合によってはその君主にとって不利であり、強いて君主の地位を動かそうとすることもあるかもしれませんが、君主の地位の動揺は取りも直さず国民の心が動揺することであり、一国が乱れる不幸な事態となります。
このような不幸な時代の成り行きに際しては、独立して生きる人は自分の一身の小さな利害についてつべこべ言わずに、必ず世の中が平和になるための方向に向かって努力し、場合によっては生命や財産を犠牲にしてもその方針を守るべきです。
いや、単に事態が切迫してからそうするだけではなく、平時の日常においても人の心が高尚になるように導き、かりそめにも動物のような真似を人がしないように努め、そのことによって社会が乱れることが現実に起きないうちから未然に予防します。
つまり、世の中の安定を維持することを天職として勤めようとするものです。
ですので、平和な時代でも、乱れた時代でも、自分の方向性を間違えることはほとんどありません。
そして、そうした独立して生きる立派な人物の出処進退の仕方は、必ずしもその時の君主や国王の厳しい命令に接してやむをえずそうした任務を行うわけではありません。
また、君主の特別な恩恵を受けてその恩義に報いるためにそうした任務を行うわけでもありません。
直接的な恩恵や命令がどうであるかということはそもそも問わず、ただ自らを尊び自らを重んじ(自尊自重)、人間として本来尽くすべきつとめを忘れず、人間としての本当の心が指示するところに従った結果、自然と忠義の道にかなっているというだけです。
忠義の心が、自ら自発的に起こるものであり、他人から動かされるものでないことを理解すべきです。
昔の人の言葉に、「俸禄をもらっている人は、その俸禄をくれている君主のために死ぬ。」(その食を食(は)む者はその事に死す)という言葉があります。
昔の時代の国の君主が国土を私有し、その私有している国土という私財によって臣下を養い、臣下は衣食の生活の面倒を見てもらっていることの返礼に忠義を尽すという意味でしょう。
しかし、このことがもし正しいとすれば、俸禄をもらって養ってもらっていない人は、いささか忠誠心がなくても問題がない、という意味にも当然ならざるをえません。
それでは世の中の安定を維持するためには大変危険なことになるのではないでしょうか。
結局、忠義の心が起こる源が、他から動かされるものによっていて、人間の本来の自尊心にあることを忘れているがため、そのような危険に陥っているわけです。
その人自身がすでに自分で自分の中にある源を忘れて、進むも退くも両方とも他から動かされるものであれば、忠義も不忠もただ他人の言葉に従うだけであり、場合によっては大きく方向性を誤ることもあることでしょう。
たとえば、昔から世の中には世の中を乱す悪い臣下や反乱を起こす人はかなり多いものですが、その中には、本当に野望を抱いて、勝手に世の中を乱すものもいます。
また、そうではなく、とても生真面目な人で、騒乱を起こしたり、騒乱に参加して、失敗した後は、方向を間違えたと後悔する人もいます。
また、それとは別に、もともと悪い人が悪を行うことは別格として、ひたすら生真面目な善い人でありながら、あえて騒乱を企てて恥じることもなく、それだけでなくて自らの生命を捨てても自分の志を達成しようとする人が多いものですが、それはなぜでしょうか。
このタイプの人は、その精神はもともと善良で、忠義な家臣や正義の人間だと自認し、いまだかつて心にやましいことがないためです。
なぜやましいところがないのでしょうか。
忠義名づける局部的な教えを聴いて、自分で自分自身を忘れて、他を仰ぎ他を信じ、一切の判断を他に任せて、自分自身が独立して生きようとする考えがないがためです。
昔から、多くの戦争や内乱があり、その大義名分はさまざまですが、敵と味方の両方において、両方ともにその陣営の観点から言えば、忠義な家臣や正義の人物でない人はいなかったわけです。
ちょうど、忠義と忠義とが衝突していたわけです。
その人の精神を調べれば、そもそも同じようなものであり、正義か悪かというのは、ただ勝ったか負けたかによって分かれただけです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということわざが、物事の本当の様子であり、忠義な家臣や正義の人物ということと、叛乱を起こした家臣や世の中を乱す人ということの、二つの間はあんまり差がないということになってしまい、それでは本当に危険なことだ言えます。
そもそも、世界の歴史が始まって以来の、今の程度の文明の段階においては、世界のあらゆる国の人々を平均してみても、本当に独立して生きる人は非常に少ないものです。
ですので、人々を教えるための方法もまた、もっぱら部分的な狭い範囲になってしまい、道徳の心が起こる根本の源を説き聞かせることができません。
忠義といい、親孝行といい、ちょうど道徳の教えを分割販売して人々を導くことが、仕方ない状況です。
ですが、文明の目的は、人間の社会を平和に安定させることにあります。
平和の根本は、人々がそれぞれ自分で自分自身の尊さを知って、そのことによって社会の利害を判断できることにあります。
教育に携わる者や、道徳教育を行う人は、深く考え思うべき事柄です。