現代語私訳『福翁百余話』第十章 「独立した人が持つ親孝行の心とは」

現代語私訳『福翁百余話』第十章 「独立した人が持つ親孝行の心とは」




人間は本来社会的動物であり、恩を知るという人間としての本心があるものです。
集まって生活すればお互いに知り合い、すでに知り合った存在であれば、お互いに助け合おうとするのが人間としての自然な感情です。
助け助けられて、お互いに恩返ししようと願わないものはいません。
場合によっては、先天的な遺伝、あるいは外側の物事の誘惑によって、例外的な人が生じることもないわけではありませんが、世界の人類をおおまかにまとめてその本来の姿がどうであるかを調べれば、集まって生活してお互いに助け合ってお互いに恩を知っている存在であるということは、議論の余地のない事実です。


しかしながら、人間の智恵や人間の力の働きは、おのずから限界があり、遠くまでは及ばないものです。
文明の世界の交通はいたって便利なものであるといっても、外国は外国であり、国内は国内です。
ただ、国の内と外の違いがあるだけでなく、その国内の中であっても、知らない他人もおり、知っている親友もおり、遠い親類もあり、近い肉親もあって、人類は集まって生活するとは言っても、自然と、親しいものと疎いものとの違い、遠いものと近しいものとの違いがあります。
ですので、集まって生活しお互いに助けるということは、人間にそもそも備わっている特色であり、本来持っている心ではありますが、その心が働くに際して程度の違いが発生するのは、ちっぽけな人間の智恵や力には限りがあるがためです。
広く平等に愛することは人間の本心ですが、親しい人に親しく接するのが人間の物事の現実において実際に生じていることだと理解すべきです。


さて、目の前の現実において、自分の父や母はどのような人かと尋ねれば、自分を産んで養い育て、自分を教えてくれて、助けてくれて、およそ人間が持つ力のあらん限りを尽して、自分のためにさまざまなことをしてくれた恩人であり、他に比較できる存在はいないことでしょう。
ですので、この大恩人の恩を忘れず、自分の持てる力のあらん限りを尽くそうとするのは、他の人に促されてはじめて気づくことではなく、また特に自分で意識的に努力するというわけでもありません。
ただ最も身近な最も親しい間柄から、真心が自然に起こるだけのことでしょう。
つまり、人間の本来持っている本心によって起こる本当の姿だということです。
世の中のいわゆる道徳の教えでは、このことを孝行と呼んで一種特別の美徳として称賛していますが、私はその考えがまだあまり深くないことを残念に思っています。


父母に孝行であることはもちろんすばらしいことであることは間違いありません。
しかし、孝行が起こる根本のところを求めるならば、人間のとても高尚な、人知でははかりしれない大変すぐれたものである、本心に存在しているわけです。
仮にも、その本心を、自分の最高の宝物として傷つけることなく、自ら重んじ自ら尊び、大切に守るならば、その心が起こっては、親への孝行となり、君主への忠義となり、人への思いやりとなり、正義を守る心となり、孝行・忠義・思いやり・正義とその名称がどうであるかは関係なく、あらゆる道徳の行いが備わらないということはないという状態に至ることでしょう。


この地点から見れば、親孝行もまたさまざまな行為の中の一つであり、たとえるならば人間の身体の中の目や耳のようなものです。
耳が聞こえ、芽が見えることは、五官の中のすぐれた働きではありますが、単に耳が聞こえ目が見えることだけが健康であることを見て、それによってその人の身体全体がどうであるかを判断することはできません。
身体のさまざまな器官の働きは、生きている元気な力に源を持っており、生きていく力が元気でなければ、さまざまな器官もまた衰弱してしまうことでしょう。
人間としての本心が独立している人でなければ、思いやりや正義や君主への忠義や親孝行も、非常に危なくなってしまいます。
知識人や学識ある人が深く注意すべき事柄です。


以上の主張は、決して君主への忠義や親への孝行を軽視しているわけではありません。
それらを重視することが深いがために、ますます注意を深くしているものです。
身近な実例を示しましょう。
中国や朝鮮では、親孝行をあらゆる行為の根本と称して、親孝行をうるさく主張し、親孝行というひとつのことが向かうところ敵なしとなっており、人間のあらゆる行為は親孝行によって始まり親孝行によって終るということがモットーになっています。
しかし、その現実をよく調べてみるならば、世界中で親不孝者が多いのは中国と朝鮮に極まると言っても言い過ぎではありません。
数限りない実例を挙げることは本当に簡単なことですが、それは省略して、今の近い実例として朝鮮国王の親子の間柄を見ても、その証拠は十分なことでしょう。(※)
このような親孝行を大事にする国でありながら、このような親不孝が行われるのはいったいなぜなのでしょうか。
昔から、親孝行ということへの解釈が非常に多くあり、多くの言葉が費やされて議論される中で、だんだんと表面的な儀式となってしまい、偽って泣くことがあり、偽って拝礼することがあるというような状態になってしまっているからです。
父母の喪中ということで家に走って帰って三年間喪に服し、その三年の喪中の間に三人の妻や妾との間に三人の子どもを産むというようなことは珍しくない話であって、世間でもそのことを疑問に思う人もいないそうです。
ただ驚くばかりです。
世のことわざに、「言葉多き者は品少なし」(口数が多い者は心に品がない)という言葉がありますが、それはこのようなことを指しているのでしょう。


ですので、私はもちろん親孝行は重視しているのですが、親孝行を論じるにも行うにも、すべて儀礼的な形式を離れて、人間が本来持っている本心に働きかけ、父や母に仕えることにおいては派手に人目をひいて外見を飾るようなことは主張しません。
本当に親しい相手に接すれば真心が自然に、そして当然に起こるものですから、父や母に親孝行だからといって自分から誇る必要がないことはもちろん、傍から誉める必要もないことです。
親孝行を誉める必要がないのは、人間に耳や目があるのを見ても驚く必要がないようなものです。
親孝行は驚くほどのことではありません。
驚くべきなのはただ親不孝であることです。
それに加えて、親孝行の真心が起こる源は、あらゆるものの中で最も尊く、また人知でははかりしれないすぐれたものである人間の精神に存在しています。
ですので、私は、単に外面的な親孝行だけに多くの言葉を費やすのではなく、その源を重視して、源がますます深くなればなるほどますます精神は独立するものであり、親孝行の心もまたそれに従って、知らず知らずのうちに実際に現れてくるものであり、こうして内面においても外面においても親孝行がずっと変わらずに続いていくことを願っているわけです。




福沢諭吉が述べている朝鮮国王親子の対立とは、高宗とその実父の大院君の対立を指している。高宗は王妃の閔妃とともに、大院君としばしば対立し確執があった。