現代語私訳『福翁百余話』第十一章 「国を成り立たせるもの」
国民が自分の国の利益だけを企て、他の国の痛みを省みないということは、世界の公然とした事実です。
国家同士の付き合いの本当の様子は、義理も人情もないものだと言えます。
色眼鏡なく平静な心で、とても自由で公正な目で観察するならば、宇宙の中では芥子粒と同じぐらい小さなこの地球の表面で、ちっぽけな人類がそれぞれの場所で群れをつくって、それぞれの国に分かれて政府をつくり、お互いに利害を異ならせてささいなことで争い、そのささいな利益のためにしばしば詐欺や脅迫のようなことを行い、それを外交や政治だと呼び、暴力や殺人の方法を工夫してそれを軍備や国防と名付け、心を疲労させ財政を浪費し、実際には人間の安全や幸福を害して物事の進歩や改良を妨害しながら、かえって自分では誇らしげに君主への忠義や愛国心だなどと自称していることこそ、おかしなことでしょう。
要するに、今の通俗的な世界においては、いわゆる愛国心というものの迷いから抜け出して、万物の霊長である人間に本来備わっているつとめに努力しているわけではないわけです。
ですので、天が与えてくれている幸福は大いなるものなのですが、その恵みを無駄にして、むやみに悲しい境遇に自らを追いやって苦しんでいるわけです。
以上に主張したことが、はたして間違いがないのであれば、世界の歴史が始まって以来、今日に至るまで、世界中の人々は、ただお互いに衝突し、その衝突に煩悶して、死んだり生きたり、生きたり死んだりしてばかりいます。
本当に気の毒な状態ですが、さらに目を転じて、人間の文明や学問の進歩の実情を観察するならば、そののろのろとした遅さに驚くばかりです。
何百年何千年という間に、この世界には聖人や天才と呼ばれる人が輩出し、人類を等しく思いやり愛することや、この世界は皆兄弟だといったことを主張し、わずかに世界の調和を目指す思想を述べた事もないわけではありません。
しかし、ただそれらのことは、その人の希望を述べただけのことであり、実際には実行されていません。
それだけでなく、実際の出来事は正反対であり、人類を等しく思いやり愛するということはともかく、この世界の兄弟同士はお互いに近づいては、奪ったり奪われたり、殺さなければ殺されるという動物のような野蛮な劇を演じていることこそ、仕方がないこの現実世界の運命なのでしょう。
ですので、今の世の中の国を成り立たせている人々が、外交と言い、国防と呼ぶものは、いわゆる正当防衛の必要によって促されていることであり、つまり野獣に対抗して野獣の方法をとるというものです。
ですので、人類を等しく思いやり愛するなどとは、口にすることもこの世界の事情に疎いぼんやりとした話です。
今の世界は、「生存競争」の四文字が国家を成り立たせる格言として定められているものです。
結局、人間の文明や学問の未発達がそうさせているわけであり、個人の罪ではありません。
動物の世界の遊び戯れだと言っても良いものです。
すでに野獣の世界にいて、お互いに生存競争をしようとしているのであれば、手段の良し悪しは選ぶ余裕がなく、場合によっては権利や義務と言い、場合によっては同盟や正義感を言ったり、いわゆる国際法が許す限りは外面を取り繕ったりしますが、その内実は、ただ自分の国の利益を図るだけです。
ですので、国民を教え導く方法も、自然と自国の利益にだけ偏った考えに基づき、平和な時代においては貿易において利益を争い、有事の際には軍事上の勝敗を決定する覚悟を持って、そのことを経済学において説いたり、国家への忠誠心や愛国心についての議論で論じたりして、他の思いがありません。
一軒、非常に殺風景なことのようです。
しかし、これはたとえるならば、医者が病人に対して薬を与えることと同じです。
本来は、薬というものは、人間の身体を養うための性質のものではありません。
しかし、すでに病気にかかった場合は、生きていくための力のバランスを取り戻させるために、一時的な手段として薬を使わざるを得ません。
ですので、今の時代において、各国がお互いに向かい合って、自分の国の利益を主張して愛国に熱中するようなことは、決して思想として高尚なものではなく、万物の霊長である人間にとっては非常に不似合なことですが、いかんせん、この世界はあたかも病人の世界であって、人類の生存はただ競争によっています。
あらゆるすべてのものごとを行うことも、すべて競争から出てくることですので、とても自由で公平な目から見れば笑うべきものが多いものだと言えます。
しかし、それが国家を成り立たせている実際の姿なのですから、一生に付すことはできません。
ただ、人間の精神や思想には人知でははかりしれない大変すぐれた深いものがあるということを忘れないで、たとえ口では生存競争の必要性を論じたり、また実際に生存競争のための努力を実行するとしても、心の中の深いところでは病人の世界においてやむをえず薬としてそうしていることだと自分自身では考えて、ともかく思想や精神の範囲や幅を広くしていって欲しいと、私は祈っています。