燕山君のこと

今日、韓国時代劇『王と妃』全186話をついに見終わった。


今年の一月ぐらいからちょっとずつ見たのだけれど、ついに全話を見終わって、感慨無量。
本当にすごい歴史劇だった。


『王と妃』のラストは、ちょうど、『宮廷女官チャングムの誓い』の最初の方で描かれる「中宗反正」(燕山君を倒し、中宗が擁立されたクーデター)で終る。


チャングムを見たころは、その前の時代にこんなにすさまじい物語があったとは思いもしなかった。


燕山君は、李王朝史上最悪の暴君として有名な人物。
実母が王妃だったのに姑の仁粋大妃に憎まれ、廃位されたのち、毒殺されたことを知らずに育つ。
しかし、やがてその事実を知り、二十年も経っているのに、母の復讐に立ち上がり、血の粛清を始める。


二十年以上前の、しかも会ったことがない母親のために、あんなにも怒りが生じるというのは本当に尋常ではないと思う。
業は決して消えないということなのだろうか。
事実は隠し通すことはできないということなのだろうか。
尹氏を陥れた人々は、二十年後に燕山君に虐殺された。
業はいつかは必ず結果を出すということなのだろう。


『王と妃』は本当に迫力があって、どの役者も迫真の演技で、韓国時代劇の金字塔と本当に思った。
燕山君は、暴君とは一応歴史の本で聴いてはいたが、ここまで滅茶苦茶とは、見ながら唖然とした。
日本の歴史には、ここまでの暴君はいない気がする。


だが、『王と妃』では燕山君の孤独と哀れさもよく描かれていて、本人が悪いのだけれど、どれほど乱行や悪行を重ねても少しも幸せでなく、かえって不幸のどん底に落ち込んでいく様子がリアルに描かれていて、とても考えさせられた。


『王と妃』のラストでは、流罪になった燕山君が「容恕」(許し)という字を書いている姿が描かれていた。
フィクションかもしれないが、とても胸を打たれた。
「容恕」ができず、何かの恨みを深く持ち、こだわるからこそ、人は争い、果てしもなく傷つけあっていくのだろう。
「恨」ではなく「容恕」ができていれば、もっとさまざまなターニングポイントで、燕山君も、他の人々も、もっと自他ともにあそこまで不幸にならずに済んだのかもしれない。


『王と妃』に描かれる燕山君の暴君ぶりには、甚だ驚かされるばかりだったが、おそらく、仏典に描かれるアジャセとアングリマーラを足したら燕山君になるのかもしれない。
考えてみれば、仏陀がアジャセとアングリマーラを改心させたのは、燕山君を改心させたようなものだったと考えると、本当にすごいと思う。
仏陀がいれば、ネロや燕山君も救われたのだろうと思う。
その点、燕山君はなんとも哀れだったとも言えるのかもしれない。


『王と妃』は、いろんなことを考えさせられる、とてもすぐれた歴史劇だった。
おかげで、端宗や世祖や仁粋大妃や燕山君らの事績を、だいぶ知ることができたし、興味を持つことができた。
かつて、ソウルに旅行に行っていろんな王宮をめぐった時は、これらの人物の事績や物語をまだ何も知らなかったけれど、今度行ったらその歴史を偲びながら史跡めぐりをしてみたいし、できればいつか端宗のお墓にはお参りしてみたいものだ。