ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その6
いつの世も愚かしいものだとは思うべきかもしれません。
また、いつの世も、大半の人間というのは不平不満ばかりで、不従順なものだと理解すべきかもしれません。
貴殿の生きた十四世紀のイタリアも、また混乱や分裂の時代でありました。
そうであれば、二十一世紀の日本は、とりあえず内戦がないだけ、また国内の秩序が一応保たれているだけ、はるかに恵まれた幸せなものだと思うべきなのかもしれません。
しかしながら、私が深い絶望を抱えていることは、昨年、あれほどの大きな震災と原発事故による未曾有の危機・国難に際したというのに、わが国の政治は統一や団結どころか、首相への誹謗中傷と引きずりおろしのための策動に明け暮れて、またまた前の首相は短命政権に終り、今の首相も不安定な政権運営を強いられているということです。
とはいえ、どの時代も、なかなか強力な指導者というものは現れないものかもしれません。
イタリアにしろ、ドイツにしろ、統一された政治権力そのものがなかなか生じ得なかったわけですし、イギリスやフランスですら強い政権というものはともすれば生じにくいものでした。
権力というのは、過剰であっても困るものですし、過剰な権力が暴走した時ほど恐ろしいものはありません。
しかし、それでは希薄であっていいかというと、必ずしもそうではありません。
特に、ひとつの国家や社会が危機に瀕している時や、大きな改革を必要している時には、脆弱な権力ではとても対処できません。
古代ローマにおいては、国家の危機には、常に卓越した指導者が現れ、偉大な徳を発揮してきました。
それは歴史の偶然だったのか、そうではなく、そうした優れた人物をうまく活用する仕組みがよくできていたのか、そこのところはよくわかりません。
もし後者だとすれば、どの社会にもどの時代にもそれなりにすぐれた人物がいるはずで、要はそれをうまく活用できるかどうかということが大事なのかもしれません。
しかし、今のわが国では非常にやっかみや猜疑心や破壊的な衝動が強いため、指導者はささいな欠点をあげつらわれ、引きずりおろされることが多く、その立場は非常に脆弱です。
この二十年、ごくわずかな例外を除き、どの政権も短命でした。
しかし、マスコミも民衆も、短命政権ばかりが続いていることに飽きもせず、相も変わらず非建設的な衝動に駆られ、誰でも引きずりおろすために狂奔しています。
結局、このような国家や社会は衰退し、滅びるしかないのでしょうか?
貴殿がコーラ革命に大きな期待を寄せながら、幻滅せざるを得なかったように、私もまた、今のわが国における、束の間の政権交代が脆くも儚く潰え去っていくことを、ただ黙って幻滅するしかないのかもしれません。
いつの世も、人間というのは愚かなもので、無責任なものかもしれません。
そして、無力なものかもしれません。
他ならぬ、自分自身を含めて。
アウグスティヌスが喝破したように、しょせんは地の国は不完全なもので、神の国に比べればどうしても堕落や幻滅を免れないものなのでしょうか。
とはいえ、地の国には地の国なりの、それなりの努力や役割があってしかるべきかもしれません。
いずれにしろ、非建設的な不平不満しか言わず、国難に際して自国の首相に対して悪口雑言や引きずりおろししかしないような人々は、全く愛国心を欠いた、人間として恥ずべき、徳も倫理も欠いた破廉恥の極みの堕落しきった人間、ということは言えるかもしれません。
そのような人は地の国にふさわしいのかもしれませんが、逆に言えば、地の国にもふさわしくない、くだらない存在とも言えます。
なぜならば、徳を欠いているという意味において、それらはやはり恥ずべき存在だからです。
多くの似非愛国者が、愛国の名のもとに、自国の指導者をこきおろし、政治の脆弱化と分裂をいつも画策していますが、それらの人々こそ最も反愛国的なものだということは、間違いなく言えることですし、このような認識をしっかり持ち、このような言論の力を発揮することこそ、貴殿のもろもろの言葉から励まされて得られた力かもしれません。
とはいえ、私は多く悲観的であり、人間の本性について、特にこの時代の日本のありようについて、あまりにも深く絶望してきました。
とはいえ、それはどの時代も似たようなもので、貴殿や、マキャヴェリらも、多かれ少なかれ、いえ、私よりもはるかに強い度合いにおいて、そのような心情だったのでしょう。
かのプラトンも現実政治への深い絶望と「めまい」を訴えていました。
とはいえ、そうであればこそ、せめても、自分だけでもいたずらに指導者を誹謗中傷したり、政治の分裂や弱体化を招いたり、非建設的な言辞を弄することはしないこと、そのようなものは人として恥ずべきことであり、できうる限り、建設的で、品性と適切さのある言葉で、根拠や具体的な良い内容を持った、そうした言葉を心がけること。
それこそが大切なことであり、そして誇りとすべきことなのかもしれません。