ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その7

ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その7


人がこの人生を渡っていくというのは、なんと困難なことでしょう。
ただ生きていくだけでも大変なのに、その上、善く生きようと欲するならば、どれほどの智慧と勇気と努力を要することか。


人間の一生というのは、どんなに長くても百年前後の、ごく短いものです。
悠久の宇宙の時の流れからすれば、ほんの一瞬でしょう。


しかし、その一瞬の間に、なさなければならないことは多く、無事に生きとおすことは大変困難なことだと思われます。


貴殿のように、古典に精通し、古典を糧とし、古典を実際に自らの血肉とすることが、人生を生き抜き、そのうえ善く生きようとするには、実に大切なことかもしれません。
人間には、パンだけでなく、魂の糧というものが必要なのですから。


古典を読む時の心がけとは何でしょうか。
それは、おそらくは、貴殿がなしているように、古人との対話、生きた対話だと心がけることなのかもしれません。


実際、貴殿は、遠い過去の古人と自らの対話篇を書いたり、古人への手紙を書きました。
つまり、貴殿にとっては、古典を読むということは、生き生きとした古人との対話であり、生きている人間との対話と、基本的には同じものとして受けとめておられたのかもしれません。


古典とは、古人が他ならぬ私に宛てて書いてくれた手紙や遺言状みたいなものなのかもしれません。
しっかりとそれらのメッセージを受けとめて、応答しようとするか、応答しようとできるか。
それが何よりも大事であり、そこから古人との生き生きとした対話が始まるのかもしれません。


もちろん、いま生きている人々、現に実際に言葉を交わせる人との間の対話も重要です。
しかしながら、いま生きている人々の中にもすぐれた人はいるものの、玉石混交であり、必ずしもすべての人が自分に善い影響を与える人とは限りませんし、師というものはめぐりあうことが難しいものです。
我以外皆師というのは、見方によっては確かにそのとおりなのでしょうが、誰からも学ぶことを心がけることは大切とはいえ、卓越した徳や見識の持ち主というのはそんなに多くないというのも事実です。


しかるに、古典となっている書籍やその著者である古人というのは、歴史の淘汰を経た、いわば選りすぐりの賢者たちのみとも言えます。
いわば、師の宝庫です。
したがって、いま生きている人々との対話も重要ではありながら、自分を高めるための最も効率の良い対話やその宝庫は、やはり古人の古典にあると言えます。


そして、貴殿が指摘するとおり、一冊の本というのはその本だけの喜びにとどまらず、その本の中に言及されている無数の他の本の魅力に目を開かせてくれます。
つまり、一冊の本というのは、他の本へつながっていく扉や入口でもあるわけです。
私は今まであまり興味があったわけではないのですが、貴殿の本を読んでいて、俄然キケロを読みたくなってきました。


つまり、善き友である古人や古典というものは、さらにまた別の善き友を次々と紹介してくれるということでしょう。
真に善き友というのは、善き友というものを新たに紹介してくれる存在でもあると思われますが、まさに良書というものはそれそのものです。


ところが、近年は、なんとあまり本が読まれなくなってきていると言われています。
わが日本では、毎年、かなりの数の書店が店を畳み、書店数は減少していると聞きます。
インターネットの普及によるそうです。
たしかに、インターネットは便利なものではありますが、本腰を据えて長い文章を読もうとする時には、紙に印刷されていないと、しっかりと一冊の本に装丁されていないと、なかなか読むことはかえって難しいのではないかと思われます。
人がしっかりと考えるためには、紙を一冊にまとめた本という存在が不可欠であることは、インターネットが普及しても変わらないと思われます。
貴殿が今の世を見られたらどう思われるでしょうか。
善く生きるための糧も砦も放棄されて、善き友をなくして、右往左往する人が増えた時代だと思われるでしょうか。