ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その4

ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その4


自分を不幸だと思うのは、おそらくは甚だしい誤りなのでしょう。


世の中に、自分より幸福な人間がいるのも事実でありましょうけれど、自分より不幸な人が多いのも事実でしょう。


この世界全体から見れば、内戦や飢餓に苦しめられている地域も実に多いものです。
貧しく、住む家すらない人々も多いことでしょう。


それを思えば、衣食住がとりあえず満ち、秩序と平和がある日本の社会に住んでいることは、望外の幸せであり、この上は、己の努力次第で人生の道を切り開き、徳によって幸福をつかむのが、人としてまず第一に心得べきことではありましょう。


しかしながら、幸福とは一体何なのか、皆目わからなくなる時があります。
自分の人生は失敗だったのではないかという気持ちが、しばしば私を苦しめます。


幸福とは、いったい全体何なのでしょうか?
貴殿の書物を読んでいると、直接はその答えは今の所見つかりません。
どこかには書いておられるのかもしれませんが、あまり幸福そのものを貴殿が求めているとは思われません。
しかも、貴殿の御自身の意識としては、しばしば幸福どころか、身心に大きな苦しみを抱え、憂鬱を抱え、煩悶しておられたことはよくわかります。


しかしながら、貴殿も含めて、なんとルネサンスのイタリアの人々は光り輝いていることか。
おそらく、当事者である貴殿たちが思う以上に、貴殿やその他の人々がその時代から放った光は、今の世界をも照らし、そして今もって眩しい思いで仰がれているのは、おそらく極めて貴殿御自身には意外なことなのかもしれません。


それで思ったのですが、貴殿たちが輝いているのは、幸福を直接求めていなかったからなのかもしれません。
幸福をではなく、徳を、真理を、高い生を、常に希求し、たゆまぬ研鑽をしていたからこそ、結果として光輝き、そして幸福そうに、あるいはそれ以上の、至福の生に輝いて見えるのかもしれません。


今の私たち日本人は、徳や真理や高き生を求めるよりは、金銭や快楽こそが求められています。
徳や真理や高き生などは、寝言か戯言か世迷言として受けとめられがちです。


ですが、よく考えてみれば、貴殿の時代もまた、いくばくかは似たものかもしれません。
いつの世も、大半の人間はそうなのでしょう。
ごく一部でも、いや、自分一人だけでも、快楽や金銭よりも、もっと言えば幸福よりも、徳を熱烈に愛し、真理や高みを希求する人間となること。
それが、その時代の高みを左右することなのかもしれません。


そうであれば、幸福とは何か?と問うよりも、徳とは何か?真理とは何か?高き生き方とは何か?高邁さとは何か?このような質問をこそ、人は問うべきであり、幸福はそうした問いや生き方に、結果として付き従うものであると言えるのかもしれません。


そうであれば、自分が不幸であると思う時間がもしあるならば、その時間を自分の徳の足らなさを省みる時間に振り替えてこそ、賢い人間と言えるのかもしれません。


徳ある人こそ幸いなれ!