相応部経典メモ1

相応部経典メモ1


(ヤッカいわく、)
「この世で、人にとって最上の富は何か?
何をよく修めたならば、幸せをもたらすのか?
もろもろの味のうちですぐれて良いものは何か?
どのように生きることを、最上の生活というのか?」


(尊師(※釈尊)いわく、)
「信は、この世において人の最高の財である。
徳をよく実行したならば、幸せをもたらす。
真実は、実にもろもろの飲料のうちでも、すぐれ甘美なるものである。
明らかな智慧によって生きることが、最上の生活である、と人々はいう。」


(ヤッカいわく、)
「どのようにして激流を渡るのか?どのようにして大海を渡るのか?どのようにして苦しみを超えるのか?どのようにして全く清らかになるのか?」


(尊師いわく、)
「人は信仰によって激流を渡り、つとめはげむことによって海を渡る。
勤勉によって苦しみを超え、明らかな智慧によって全く清らかとなる。」


(ヤッカいわく、)
「どのようにして叡智を得るのか?
どのようにして財を得るのか?
どのようにして名誉を得るのか?
どのようにして友好を結ぶのか?
この世からかの世へと移って、死んだあとで悲しまないようにするには、どうしたらよいのか?」


(尊師いわく、)
「尊敬さるべき真人たちを信仰する人が、安らぎに至るための教えを聞こうと願って、怠りなまけることのない聡明な人は、明らかな智慧を得る。
身に適したふさわしいことをなし、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。
真実をまもることによって、よい評判を得、ものを与えるならば友好を結ぶ。
(このようにするならば)この世からかの世へと移って、死んだ後でも悲しむことがない。
家を求めながらも信仰あり、
真実と自制と堅実と捨離と、この四つの徳を具えている人は、
死んでからあとでも悲しむことがない。この世からかの世に移って、死んだあとでも、このように悲しむことがない。
真実・自制・捨離・忍耐よりもさらにすぐれたものがあるかどうか。
ひろく世の道の人・バラモンたち、他の人々に尋ねよかし。」


(相応部経典(春秋社)第一巻、342〜343頁)







(サッカの七つの誓い)

一、 自分が生きている限り、私は母と父とを養おう。
二、 生きている限り、私は家の中の年長者を敬おう。
三、 生きている限り、私は柔和なことばを語ろう。
四、 生きている限り、私はそしることばを語らないことにしよう。
五、 生きている限り、私は、垢やもの惜しみのない心で、寛仁で、手を洗ってきよめて、施し捨て去ることを喜び、他人の懇願に応じ、施して分配することを楽しむ者として、わが家に住みたい。
六、 生きている限り、真実を語る者でありたい。
七、 生きている限り、怒ることのない者でありたい。もしも私に怒りが起ったならば、速やかにそれを除くことにしよう。
(366頁)



如来に対する信仰が不動で確立し、
その人の戒行がみごとで、聖者の嘉(よし)とするものであるならば、それは称讃される。
サンガに対する浄らかな信仰があり、その人の見識がまっすぐであるならば、その人を「貧しからず」と呼ぶ。
その人の生活は空虚ではない。
それゆえに、聡明な人は、信仰と、戒めと、澄んだきよらかな心と、真理を見ることに、努めよ。
もろもろのブッダの教えを想い起しながら。」
(372頁)





(サッカ)
「何ものを斬り殺して安らかに臥すのですか?
何ものを斬り殺して、悲しまないのですか?
いかなる一つのものを殺害することを、あなたは嘉(よし)とするのですか?
ゴータマよ。」

(尊師いわく、)
「怒りを斬り殺して安らかに臥す。
怒りを斬り殺して悲しまない。
毒の根である最上の蜜である怒りを殺すことを、聖者は称讃する。
それを斬り殺したならば、悲しむことはないからである。」
(380頁)




「怒りに打ち克たれるな。
怒った人々に怒り返すな。
怒らぬことと不傷害とは、常に気高い人々のうちに住んでいる。
怒りは悪人を押しつぶす。
譬えば、山岳が人々を押しつぶすように。」
(384頁)




「心に気をつけている人は、常に幸せである。
気をつけている人は楽しく栄える。
しかし怨みからは解脱していない。
昼も夜もすっかり心に不傷害を楽しんでいる人は、生きとし生けるものどもを慈しむ。
かれは何ものをも怨むことがない。」
(332頁)




ニルヴァーナとは、一切の束縛から解き放たれることである。」
(335頁)


「人は何によって「よきところ」(suggati)に行き得るのかということを、そなた自身が知るべきである。」
(325頁)




一、 最上の善いことばを語れ。これが第一である。
二、正しい理を語れ、道理に反することを語るな。これが第二である。
三、好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
四、真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。
(298頁)


「自分を苦しめず、また他人を害わないようなことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。
こころよいことばのみを語れ。そのことばは、人々に歓び迎えられることばである。
他人に禍いをもたらすことなしに語ることばは、こころよい。
真実は実に不死のことばである。これは永遠の理法である。道義も教えも真実の上に確立している、と立派な人々は語る。
安らぎに達するために、苦しみを終滅させるために、仏の説きたまう安らかなことばは、実にもろもろのことばのうちで最上のものである。」
(299頁)




(ヴァンギーサ)
「他人がわたしのために、こころよからぬことを除き去って、こころよいことを生ぜしめてくれるということが、どうしてありうるでしょうか。
さあ、わたしは、自分で、自分のためにこころよからぬことを除き去って、ここおりょいことを生じさせましょう。」
(294頁)


「生まれを尋ねるな。行いを尋ねよ。」
(263頁)




「一人が清らかな行いを修めたときに、千人の人が死を脱れた。」
(240頁)


「怠けることなく修行を完成なさい。もろもろの事象は過ぎ去るものである。」
(244頁)


「人が生れたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口をいって、その斧によって自分自身を斬り割くのである。
毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、彼は口によって禍いをかさね、その禍いのゆえに幸せを受けることができない。」
(237頁)




「黄金や銀の山があったとしても、またそれを二倍にしても、それだけでは、一人の人を満足させることはできない。
このことを知って、平らかな心で行うべし。
苦しみを苦しみの起るものとを見た人は、どうして欲情に傾くであろうか。
世間における制約は束縛であると知って、人はそれを制しみちびくために修学すべし。」
(182頁)


「人間の寿命は短い。立派な人はそれを軽んぜよ。
頭髪に火がついて燃えている人のようにふるまえ。
死が来ないということはあり得ないからである。」
(169頁)





「もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。
悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。
死に襲われて、人間としての生存を捨てつつある人にとっては、何が自分のものなのであろうか。
かれは、何を取っていくのであろうか。
何が、かれに従うものであろうか。
影がそのからだから離れないように。
人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って(身につけて)おもむく。
それは、かれに従うものである。
影がそのからだから離れないように。
それゆえに善いことをなして、来世のための功徳を積め。
もろもろの功徳は、あの世において人々のよりどころとなる。」
(117頁)





「常に心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を節することを知っている人にとっては、もろもろの苦痛の感覚は弱まってゆく。
寿命をたもちながら、徐々に老いる。」
(130頁)


「わたしは善き友となろう。
善き仲間となり、善き人々に取り囲まれるよになろう」
(138頁)



「人のいない地域(荒野)に清冷な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消え失せるように、
愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。
健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。
牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく」
(142頁)



サーリプッタは「聡明な人」であると、遍く認められている。かれは怒ることがない。求めること少なく、柔和で、自ら制し、よく修養していて、使用人が(賃金を支払われる時を待つ)ように、死の時を待っている。」
(104頁)


「善き人々とともに坐せ。善き人々と交われ。善き人々の説く正しい教えを学び知って、すべての苦しみから脱れる。」
(90頁)



「行為と知識と理法と戒律と最上の生活と。
これによって人々は浄められる。
種姓によるのでもなく、また財産によるのでもない。
それゆえに、賢者なる人は、自己のためになることを見て、
真理を正しく思考せよ。
このようにしたならば、人はそこで浄められる。」
(88頁)




(コーカナダー)
「世の中のどこにあろうとも、ことばでも、心の中でも、身体によってでも、いかなる悪をもつくってはいけません。
欲楽を捨てて、心を落ち着けて、気を静めて、禍いをともなう苦悩を受けてはいけません。」
(43頁)


(どうすればそこから脱出できるか?という天女の質問に答えて)
「その道は「まっすぐな」と名づけられ、その方角は、「危険なし」と名づけられ、その車は「ガタガタ音を立てぬ」と名づけられ、真理の車輪「法輪」を備えつけられている。
慚じは手すり台の板、気を落ち着けていることはその帷幕である。
法をわたしは御者と呼ぶ。「正しい見解」を先導者と呼ぶ。
このような車に乗る人は、女であれ、男であれ、実にこの車によって、ニルヴァーナの近くにいる。」
(47頁)



「老いに至るまで戒めをたもつのは善いことである。
信仰を確立することは善いことである。
明らかな智慧は人々の宝である。
福徳は盗賊も奪い去りがたい。」
(52頁)


「旅人の友は隊商の仲間である。
わが家における友は母である。
事が起ったときに幾度も友となる者は朋友である。
来世における友は自分のつくった功徳である。」
(53頁)


「子らは人々のよりどころである。
妻は最上の友である。
大地によっている生きものどもは雨の精霊に助けられて生きているのである。」
(54頁)



「名(※ナーマ、心)は一切のものに打ち勝つ。名よりもさらに多くのものは存在しない。名というただ一つのものに、一切のものが従属した。」
(57頁)


「世間は心によって導かれる。世間は心によって悩まされる。心という一つのものに、一切のものが従属した。」
(58頁)


「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」
(58頁)


「いかなる世界においても、ことばによっても、心によっても、身体によっても、いかなる悪をもしてはならない。
もろもろの欲楽を捨てて、よく気をつけて、しっかりと念い、ためにならぬ苦しみに身を委ねるな。」
(19頁)




「曠野の旅の道づれのごとく、乏しき中よりわかち与える人々は、
死せる者どものうちにあって滅びない。
これは永遠の法である。
ある人々は、乏しき中からわかち与え、ある人々は、豊かであっても与えない。
乏しき中から与えたならば、
(その施与は)千倍にも等しいと量られる。」
(29頁)


「友よ。「与える」というのは、善いことだ。
たとい乏しき中からでも、「与える」というのは、善いことだ。
信仰をもってわかち与えるということも、善いことだ。
法にかなって得たものの中からでも「与える」というのは、善いことだ。
慎重に選択して与えるのも、善いことだ。
慎重に選択して与えることは、幸いな方「ブッダ」の称讃したまうところである。
この生ある者どもの世において、施与を受けるべき人々に与えたならば、おおいなる果報をもたらす。
よい田畑にまかれた種子のようなものであるといわれている。」
(32頁)