現代語私訳『福翁百話』 第八章 「善いことか悪いことかの基準は自分がして欲しいことかどうか」
道徳とは、人間と人間の関係があって後に生じる事柄です。
たとえば、もし船が難破して無人島に漂着して、ただ一人だけその島に上陸した人がいたとすれば、その人はその日から道徳を心がける必要が一切無くなると理解すべきです。
なぜなら、人をだまそうと思っても相手がいないので嘘も言えませんし、物を盗もうとしても持ち主がいないので盗む必要もありません。
仏教における十善戒や五戒に違反することも、実行する方法がありません。
ですので、ただ智恵を働かせて、自分自身の飢えや寒さを防ぐことぐらいしか才能の発揮のしようもなく、道徳の方面から言えば、善でもなく悪でもなく、なんでもない人になることでしょう。
ですので、道徳とは、完全に人間同士の関係についての教えであるわけです。
さて、実際問題、何を善いことだとし、何を悪いことだと言うのでしょうか。
人間は人間に対して、その人がして欲しくないことをしないことが善であり、その反対に、その人がして欲しくないことをすることが悪です。
「自分がして欲しくないことを人にしてはいけません」というのは、昔の聖人の教えであり、このことを「思いやり」(恕)の道と言います。
昔の聖人が欲していたこと、つまり「思いやり」(恕)の道は、完全なる善の境地の極みであり、人間の人生にもともと備わっている心です。
どのような詐欺師であっても、自分が他人からだまされたくはありません。
他人の物を盗む盗賊であっても、自分が他人から物を盗まれれば不愉快になります。
自分は悪を行いながら、他人からは自分に対して悪を行って欲しくないというのであれば、これはつまり、善いことと悪いことの区別は、本当は詐欺師や盗賊であっても、すでに知っているということです。
ましてや、まっとうに生きている人は言うまでもありません。
善いことと悪いことの基準はこのように明白であって、この世界の人は誰もが皆、道徳の上では自分の先生であると言ってもさしつかえがないことでしょう。
そうであるとは言っても、人間の社会の物事はとても複雑で似通っていて区別がつきにくいものです。
そのうえ、物事の道理を詳細に噛み砕いて理解できるレベルの人も多くはありません。
ですので、事例として、盗賊でも善いことと悪いこととの区別を知っている、この世界の人は誰もが皆自分の道徳の先生だなどと今申しましたが、深くその道理を理解せずに、その言葉が思いがけないことに驚いて、かえって道徳を広めるどころか、その反対になってしまう危険性があります。
ですので、この世の中には宗教というものがあって、まずは人間の信仰心を堅固にし、宗教の開祖や宗派の宗祖の教えだと言って、天の福音だと主張して、ひたすら一心に善いことに心を向かわそうとするための方便を説いています。
これは、とてもすぐれた方法であり、通俗的で凡庸な人間の社会に良い影響を与えるには、これ以外の方法もないことでしょう。
先に述べた方法は、道理の上から善いことと悪いことの基準を定めるもので、今述べた宗教による方法は、昔の偉い人のことばだと言ってすでに定まっている基準に帰依させるという違いはありますが、善いことを善いことだとし、悪いことを悪いことだとする点においては、結局のところは同じひとつのものです。
私が、自分自身は特に今の世の中におけるような宗教は信じないけれど、今の世の中の宗教にも利益があると主張する理由は、このあたりの微妙な事情にだけ存在しています。