建国記念の日に思う

建国記念日について総理が演説している例があるかと思ってネットで調べてみたら、ここ最近の首相ではどうも橋龍さんだけ建国記念日について言及しているようである。
あとは、建国記念日にはこれといってメッセージを発していないようだ。


アメリカだと、建国や建国の父というのは非常に強く意識され繰り返し言及されるようである。
オバマさんの演説なども"Our Founding Fathers"とか言及されてる。
日本の場合はどうなんだろう。
あまり、総理も、一般国民も、祝日というぐらいで、格別に強く「建国」について意識することはないように思える。


しかし、本当は、国は建てるものだし、日々にその建てられたものを補強し補修するぐらいの覚悟がないと、いつの間にやらぼろぼろと崩れいくものなのかもしれない。
日本も実際は、木戸孝允伊藤博文吉田茂らのその時々のリーダーたちや、有名無名の無数の人々の強い意志により、曲りなりにも建てられ、維持されてきたものだと思う。


建国記念日は正確には「建国記念の日」。
特定の記念日というより、長い時間をかけて築き上げられ、積み上げられてきた、わが国の歴史をあらためて思い、先祖の恩を思い、子孫への自らの責務を思い、少しでも良いものを築き上げていこう、築き上げられてきた善きものを守り育んでいこう、と思うことが、この日に「建国を記念する」ということなのだろう。
それが本当の愛国心というものだろう。


本当の愛国心とは、今さえ良ければそれで良いと、ただ国債を目先の人気取りのためにばら撒くことではあるまい。
子孫の迷惑もかえりみず核のゴミを大量につくり続けることでもあるまい。
残念ながら、私はその点、国債を大量に発行することに財政を依存させ、原発政策も再び推進に転じようとする現下の安倍政権の政策方針には大いに疑問を持たざるを得ない。
建国記念日に、私たちはもう一度、日本をつくってきてくれた先祖の恩を思い、子孫への責務を思い、今やっていることがそれに愧じないものか考えるべきではないか。


建国記念の日には、私たちは、もう一度、自覚的に国を建てようと思い、建てられたものを維持し補修しよう、と思うべきではないか。
そのような日にしたならば、この日は意義があるだろう。
しかし、そうでないならば、はたして何の意義があるだろうか。


明治の自由民権の頃は、地方の田舎において憲法草案が書かれた。
多くの草莽の人々が、政府に任せず、自分たちで国のかたちを考え、築こうとした。
お上任せにせず、国民が自覚的に国を自らのものとして営み、築き、つくり直そうとした。
そういう歴史が、日本をつくってきた。


自分はどういう国をつくりたいのか、それを各自が考えて、そのためにできる範囲で何かをやっていくというのが、デモクラシーということだ。
お上に飼いならされる家畜でありたいのか、自らが主人公で先祖と子孫に責任を持つ自由人でありたいのか。
要はそのことを自らに問うことだ。
我々は本当にデモクラシーの国なのか、それとも奴隷の国なのか。


自民党や官僚に飼いならされる家畜の豚でいたいのか。
原発ムラに飼いならされて、子孫に大量の核のゴミを残し、自民とそれに結託した利権屋が国を食い物にして国債を大量に発行して子孫につけを残すのを座視しているのか。


我々は自ら国をつくる自由人か、それともお上に飼いならされる豚か奴隷か。
要は今、そのことがつきつけられている。
残念ながら、先の選挙で、大半の人が後者を現実問題として選んだ。
牙を抜かれ、マスコミの垂れ流すネガキャンに盲従した。
そのことは、恥ずべき唾棄すべき事態のはずだが、未だにその恥にも気づかない。


本当の自由人というものは、欲望に負けず、自らを律するもののことだ。
目先のことのみ考えず、国家百年の計を考えるものだ。
国債に頼る財政や、核のゴミは、未来のことを考えていない、未来への責任を放棄する、実に恥ずべき事態である。
少しずつゆでられたカエルのように、今の多くの日本国民はなっているのかもしれない。


日本を滅ぼすのは外敵ではない。
先祖の恩を忘れ、子孫のためのおもんぱかりや責任を忘れた時、その時にこそ日本は滅びの道を歩む。
311で日本が破滅の瀬戸際までいったのは、外敵のせいではなく、無責任な原発という自らのありかたが生み出したものだった。
今またその愚を繰り返していくのだろうか。


もう一度日本を創り直す、そのような覚悟でのぞんでいこう。
そう思ったのが、311のあとの日本だったのではないか。
そのような覚悟を、その後の建国記念日は、少しは持つことが、愛国心、あるいは真心と呼ばれるものではあるまいか。